価格の相談を受けていると、同じ場面に何度も出会います。自社の値付けになると強気になれるのに、他社の似た商品を買う側に回った途端、値切りたくなる。この非対称は「損得勘定が甘いだけ」と片付けられがちでした。ですが、同じ物でも持っている側と持っていない側とで評価が変わるこの現象には、40年以上前から検証が続く名前があります。保有効果です。この効果がどこまで実験で確かめられ、どこで揺らいでいるのかを、価格交渉や資金調達に関わる方に向けて整理します。
「もったいない」の正体——保有効果とは何か
保有効果(エンダウメント効果、英語では endowment effect)とは何でしょうか。あるものを一度所有すると、それを高く評価するようになる心理的な傾向です。同じマグカップでも、すでに持っている人は、これから買う人より高い金額を見積もります。手放すために必要な金額です。それだけの現象です。
この言葉を最初に使ったのは、行動経済学者のリチャード・セイラーです。1980年の論文で、この現象をプロスペクト理論の応用として説明しました。プロスペクト理論とは、人の意思決定を説明する理論です。2002年にノーベル経済学賞を受けたダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが、1979年に発表しました。この理論によれば、人は利益より損失を約2倍重く感じます。この「損失を重く感じる」傾向を損失回避と呼びます。保有効果は、損失回避が値付けの場面に現れたものだと理解されてきました。
マグカップが教えてくれたこと——カーネマンたちの実験
この効果を実験で確かめたのが、カーネマン、ノビッチ、セイラーによる1990年の研究です。舞台はカナダのサイモンフレーザー大学。77人の学生を3つのグループに分けました。
1つ目のグループには大学のロゴ入りマグカップを配りました。そのうえで「いくらなら手放してもいいか」を尋ねます(売り手)。2つ目のグループには何も配らず、「いくらなら買うか」を尋ねました(買い手)。3つ目のグループには、マグカップそのものか、それに相当する現金かを選んでもらいました(選択グループ)。
結果は次の通りでした。売り手が要求した金額の中央値は7.12ドルです。中央値とは、回答者を金額順に並べたとき、ちょうど真ん中に来る人の値です。平均よりも極端な回答に左右されにくい数字になります。選択グループがマグカップと等価だと判断した金額は3.12ドルでした。買い手が支払ってもよいとした金額は2.87ドルです。同じマグカップに対して、持っている人は持っていない人の2倍以上の値段をつけたことになります。
ここで注目したいのは、選択グループと買い手の金額がほぼ一致している点です。この2つのグループは経済的には同じ立場にあります。マグカップか現金かを選べる状況は、マグカップを持っていない点で買い手と変わりません。それにもかかわらず、実際にマグカップを配られた売り手だけが突出して高い評価額をつけました。所得の効果ではありません。「今、手元にあるかどうか」だけが評価を変えたことになります。
この実験にはもう1つの発見があります。理論上、マグカップを高く感じる人と低く感じる人が半々ずつ市場にいれば、77人中12.5人程度が取引を成立させるはずでした。しかし実際に成立した取引はわずか3件です。市場で解消されるはずの評価のズレが、ほとんど解消されなかったことになります。
「2倍」では終わらなかった——チケットの実験が示した10倍の差
マグカップの実験では、売り手の評価額は買い手のおよそ2.5倍でした。ところが対象を変えると、この差はさらに開くことが分かっています。
行動科学者のジーヴ・カーモンとダン・アリエリーは2000年、ある調査を行いました。舞台はデューク大学です。当時、大学のバスケットボール部は全米屈指の強豪でした。対象は、決勝進出をかけた試合のチケットです。すでにチケットを持っている学生93人に「いくらなら売るか」を尋ねたところ、中央値は1,500ドルでした。一方、チケットを持っていない学生に「いくらなら買うか」を尋ねると、中央値はわずか150ドルです。その差、実に10倍です。
なぜここまで差が開いたのでしょうか。カーモンとアリエリーが示した説明は「注目する対象が違う」というものです。売り手は「これを手放したら、あの興奮の瞬間を失う」という、失うものに意識が向きます。買い手は「150ドルあれば他に何ができるか」という、支払う金額そのものに意識が向きます。同じ取引を見ていても、頭の中で計算している対象が違うのです。
「本当に非合理なのか?」——市場経験という境界線
ここまでの実験は、どちらも取引に不慣れな学生を対象にしたものでした。では、日常的に売買を繰り返しているプロならどうなるでしょうか。経済学者のジョン・リストは2003年、実際のスポーツカードの即売会でこの問いを検証しました。
まず、カードを日常的に売買しているディーラーと、そうでない一般来場者(非ディーラー)を集めます。両者に、同じ価値のカードを1枚ずつランダムに配りました。そのうえで「もう1枚の候補カードと交換してもよいか」を尋ねます。配られたカードにこだわりがなければ、理論上はおよそ半数が交換に応じるはずです。
結果、ディーラーの44〜46%が交換に応じました。一方、非ディーラーで交換に応じたのは20〜26%にとどまります。さらにリストは、非ディーラーを取引経験の量でも分けました。月に6回未満しか取引しない層では、交換率がわずか6.8%でした。月に6回以上取引する層では、46.7%まで上昇しています。取引経験の差だけで、交換率が7倍近く変わったことになります。
この結果からリストが導いた結論はこうです。保有効果は非合理な心の癖というより、市場に不慣れなことで生じる一時的な現象かもしれません。交渉や商談の場に置き換えるなら、相手が値付けや取引そのものに不慣れであるほど、保有効果は強く働きやすいと言えます。
「実験の作り方がおかしいのでは」——20年続いた論争
ここまで紹介した実験は、いずれも保有効果を裏づけるものでした。しかし2005年、経済学者のチャールズ・プロットとキャスリン・ザイラーが、根本的な疑問を投げかけます。発表の舞台はAmerican Economic Review誌でした。
2人の主張はこうです。売り手と買い手の評価額に差が出るのは、心理が非合理だからではありません。実験の手続き自体に問題があるからではないか、というものです。被験者は実験の仕組みを、正しく理解できていない可能性があります。具体的には、何度も価格を提示され、最終的にランダムに1回だけ取引が成立する、という手続きです。この誤解のせいで、本来の選好とは違う数字を答えてしまっているかもしれません。プロットとザイラーは、被験者への説明や練習の機会を丁寧に設計し直した実験を行いました。その結果、条件によっては売り手と買い手の差がほとんど消えることを示しています。
この主張に対して、経済学者のアロン・イゾーニ、グラハム・ルームズ、ロバート・サグデンの3人が反論します。発表は2011年、同じくAmerican Economic Review誌でした。3人はプロットとザイラーの実験手続きを、可能な限り再現しました。しかし差は消えず、保有効果は再現されています。3人はこう論じました。プロットとザイラーが示した「差が消える」現象は、被験者の誤解が解消されたからではありません。時間を置いた再測定など、別の実験上の作為によるものだ、というものです。
この論争に、決着はついていません。保有効果という現象そのものは、その後も数多くの追試で繰り返し観察されています。一方で、その大きさが実験の設計や説明の仕方によって変動しうることも、事実として認められています。誠実にまとめるなら、こうなります。保有効果はゼロではありません。ただし、実験室で測定された数字を、そのまま鵜呑みにしてよいわけでもないのです。
なぜ人間にこの偏りが備わっているのか——2023年、進化から見た新しい説明
「非合理な心の癖」と「実験手続きの産物」。この2つの説明の間で議論が続く中、2023年に第3の角度からの研究が発表されました。ヴァンダービルト大学のオーウェン・ジョーンズらの研究チームです。進化生物学とゲーム理論の視点から、保有効果がどんな条件で強く出るかを予測するモデルを作りました。
着目したのは、「その物が進化的に見てどれだけ重要だったか」という指標です。食料や道具のように、祖先の生存に直結していた物があります。そうした種類の物ほど、失うリスクを避ける心の働きが強く残っているかもしれません。だからこそ保有効果も強く出やすいのではないか、という仮説です。この指標でモデルを検証したところ、驚くべき結果が出ました。人間の実験で観察された保有効果の大きさのばらつきのうち、52%を説明できたのです。研究チームの1人は、事前の期待をこう振り返っています。「15%も説明できれば大成功だと思っていた」。
この研究からは、何が見えてくるでしょうか。保有効果は、単なる勘違いや実験の不備ではないかもしれません。人間が長い進化の過程で獲得してきた、「一度手に入れたものを守ろうとする傾向」の表れである可能性です。現代のオフィスでの価格交渉に、狩猟採集時代の生存戦略がそのまま当てはまるわけではありません。ですが、この研究からは1つのことがわかります。保有効果は「ロジックで説得すれば簡単に消える」ような、表面的な思い込みではないということです。
サブスクにも効くのか——「所有」のない時代の保有効果
ここまでの実験は、マグカップやチケット、トレーディングカードといった、手に取れる「物」を対象にしたものでした。では、形のないサブスクリプションやポイントのような財でも、同じことが起きるのでしょうか。
2024年、経済学者のドメニコ・コルッチらが、この疑問に答える実験を発表しました。掲載誌はJournal of Behavioral and Experimental Economics誌です。516人の参加者を5つの条件に分けました。対象は3種類です。実物の財(マグカップ)、形のない財(Spotifyのサブスクリプション)、交換可能な財(Amazonのギフトカード)。それぞれで保有効果が生じるかを調べています。
結果、いずれの種類の財でも、所有した直後から保有効果は確認されました。形がないという理由だけで、この効果が消えるわけではありません。一方で、所有してからの時間の経過による評価額の変化には、財の種類ごとに大きなばらつきがありました。即時・1日後・1週間後・1か月後のいずれで評価額が最も高くなるかは、財によってまちまちです。一貫した傾向は見つかりませんでした。無料トライアルやポイント制度を設計する際、参考になる知見です。「所有させれば効果が出る」ことは確認できます。ただし「どのタイミングで効果が最大化するか」は、財ごとに検証が必要だということになります。
明日から使える実践——価格交渉と自社評価にどう活かすか
ここまでの研究を踏まえると、実務で使える視点は大きく4つに整理できます。
1. 相手が「持っているもの」を先に特定する
価格交渉が難航するとき、相手が譲れないのは金額そのものではないことがあります。「今すでに持っている何か」を手放すことへの抵抗である場合です。既存の取引条件、今使っているツール、現状の役職や体制など、相手にとっての「保有物」が何かを先に見極めます。それだけで、交渉の設計がしやすくなります。
2. フレーミングを「何を失うか」から「何を得るか」へ転換する
保有効果の背景には損失回避があります。損失回避とホルモンの説得科学で扱った通り、人は損失を強く意識するほど動けなくなります。相手の保有物を手放してもらう提案では、言い換えが有効です。「何を失うか」ではなく、「新しく何を得られるか」に焦点を当て直します。
3. 自社やアイデアへの「保有効果」を自覚する
保有効果は、相手だけでなく自分自身にも働きます。シリーズAを突破するピッチデックの行動経済学で触れた通り、創業者は自分の会社を「保有」しています。だからこそ、外部の投資家より高く評価しがちです。プレゼンや資料を作る前に、第三者の視点で自社の価値を見積もり直す工程を挟みます。これが、保有効果によるズレを補正する具体的な手段になります。この点は「自分の伝え方」の自己診断法で扱った、「自分では気づけない」構造と同じです。
4. 比較対象と基準点を先に共有する
アンカリング効果が示す通り、交渉の場で最初に提示された数字は、その後の判断の基準点になります。相手の評価額が市場水準からずれていると感じたときも、いきなり反論しないほうが得策です。客観的な比較対象、たとえば類似の取引事例や市場価格を、先に共有します。基準点そのものをすり合わせるほうが、合意に近づきやすくなります。
FAQ
保有効果とは、一言で言うと何ですか?
同じものでも、所有した瞬間から評価額が上がる心理的な傾向です。1990年のマグカップ実験では、所有者の評価額が非所有者のおよそ2.5倍になりました。
なぜ売値は買値より高くなりやすいのですか?
売り手は「手放すことで失うもの」に注目し、買い手は「支払う金額そのもの」に注目するためです。人は利益より損失を重く感じる、損失回避の傾向も背景にあります。
保有効果は、本当に非合理な心の癖なのですか?
結論はまだ出ていません。プロットとザイラー(2005)は、実験手続きの不備が原因だと主張しました。しかしイゾーニらの追試(2011)では、効果が再現され論争が続いています。2023年の研究は、進化的な観点からこの効果の存在理由を説明しようとしています。
サブスクリプションのような形のない商品にも保有効果は働きますか?
働きます。2024年の実験では、実物のマグカップだけではありません。音楽配信サービスやギフトカードでも、所有した直後から評価額の上昇が確認されました。
交渉の場で保有効果にどう対応すればよいですか?
相手の「保有物」が何かを先に特定します。失うフレームを得るフレームへ言い換え、比較対象となる基準点を早めに共有することが有効です。自社の評価にも同じ効果が働くため、第三者視点での見積もり直しも欠かせません。
まとめ——保有効果と付き合うために
保有効果は、1990年のマグカップ実験からおよそ35年をかけて、理解が更新され続けています。単純な「非合理な心の癖」という説明から、市場経験や財の種類によって変動する条件つきの現象へ。そして2023年には、進化的な起源を持つ可能性のある傾向へ。実験手続きをめぐる論争が示す通り、その大きさを鵜呑みにすることは禁物です。ですが、効果そのものが繰り返し観察されてきたことも事実です。
次に価格交渉や資金調達の場に臨むときは、2つの問いから始められます。相手は何を保有しているか。そして、自分は何を保有しているために、評価を見誤っていないか。
出典
- Kahneman, D., Knetsch, J. L., & Thaler, R. H. (1990). Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem. Journal of Political Economy, 98(6), 1325-1348. 原文PDF
- Carmon, Z., & Ariely, D. (2000). Focusing on the Forgone: How Value Can Appear So Different to Buyers and Sellers. Journal of Consumer Research, 27(3), 360-370. 原文PDF
- List, J. A. (2003). Does Market Experience Eliminate Market Anomalies? Quarterly Journal of Economics, 118(1), 41-71. 原文PDF
- Plott, C. R., & Zeiler, K. (2005). The Willingness to Pay-Willingness to Accept Gap, the “Endowment Effect,” Subject Misconceptions, and Experimental Procedures for Eliciting Valuations. American Economic Review, 95(3), 530-545. 論文情報
- Isoni, A., Loomes, G., & Sugden, R. (2011). The Willingness to Pay-Willingness to Accept Gap, the “Endowment Effect,” Subject Misconceptions, and Experimental Procedures for Eliciting Valuations: Comment. American Economic Review, 101(2), 991-1011. 論文情報
- Jones, O. D. ほか (2023). Endowment effects and the evolutionary origins of the ownership response. Evolution and Human Behavior(査読誌)。解説記事:Vanderbilt Law School
- Colucci, D., Franco, C., & Valori, V. (2024). The endowment effect with different possession times and types of items. Journal of Behavioral and Experimental Economics, 110. 論文情報
- Thaler, R. (1980). Toward a Positive Theory of Consumer Choice. Journal of Economic Behavior & Organization, 1(1), 39-60.(プロスペクト理論の応用としての保有効果の初出)
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