社内研修の資料を作り直したときのことです。フォントをそろえ、余白を広くとり、色数を三つに絞りました。受講者の評判も上々でした。ところが二週間後、内容を尋ねてみると、ほとんど誰も覚えていません。読みやすさは上がったのに、記憶には残らなかったのです。
資料づくりの基本は「読みやすく、わかりやすく」だとされてきました。一方で近年、まったく逆の説も広まっています。「あえて読みにくいフォントにすると、記憶に残りやすい」というものです。書籍やセミナーで紹介され、実際に試した方もいるかもしれません。
この説には、たしかに元になった研究があります。ただし、その後の検証で話は大きく変わりました。この記事では、原典の中身、追試で何が起きたか、そして「あえて難しくする」という発想のうち何が生き残ったのかを整理します。研修や資料の設計に関わる方に向けた内容です。
「読みにくいフォントほど記憶に残る」説はどこから来たのか
出発点は、2011年に学術誌『Cognition』へ掲載された論文です。プリンストン大学のコナー・ディーマンド=ヤウマンらが行った、二つの実験からなる研究でした。この研究では、読みにくいフォントで提示された情報のほうがよく記憶されたと報告されています。
実験1:架空の宇宙人を覚えさせた28人の実験
参加者は28人でした。三種類の架空の宇宙人と、その特徴21個を90秒間で覚えます。読みやすい条件は16ポイントのArial、読みにくい条件は12ポイントのComic Sansまたは Bodoni MTで、しかも濃度を75%のグレーに落としてありました。15分後にテストしたところ、正答率は読みやすい条件で72.8%、読みにくい条件で86.5%でした。
実験2:高校生222人の教室での検証
次に、オハイオ州の公立高校で222人を対象に実施されました。同じ教師が担当する同科目の複数クラスを、読みにくい条件と対照条件に割り当てます。配布資料やスライドのフォントをHaettenschweilerやComic Sansの斜体に変える、あるいはコピー機で紙を動かして意図的に汚す、といった加工が施されました。通常の定期テストの成績を標準得点(z得点)で比べたところ、対照群が−0.295、読みにくい条件が+0.164でした。
「フォントを変えるだけで成績が上がる」という話は、実行が簡単で費用もかかりません。メディアが飛びつくには十分な内容でした。
なぜこの説は覆されたのか
結果を一言でまとめると、追試はほとんど成功しませんでした。単独の失敗ではなく、複数の研究チームが独立に同じ結論に至っています。
25本の論文・3135人を集めたメタ分析は、ほぼゼロを示した
2018年、シエ・ヘピンらが『Educational Psychology Review』にメタ分析を発表しました。メタ分析とは、同じテーマの複数の研究結果を統計的に統合し、全体としての効果の大きさを推定する手法です。対象は25本の実証論文、参加者は合計3135人でした。
その結果、読みにくさが記憶の再生に与える効果は d = −0.01、応用問題への転移は d = 0.03 でした。dは効果量(effect size)と呼ばれる指標で、二つの条件の差を標準偏差で割った値です。0.2で小さい効果、0.5で中程度、0.8で大きい効果というのが慣例的な目安になります。−0.01や0.03は、実質的にゼロと解釈されます。
興味深いのは、ゼロではなかった二つの数字です。読みにくくすると、学習者が自分の理解度を見積もる判断(judgment of learning)は d = −0.43 下がりました。そして学習にかけた時間は d = 0.52 増えました。つまり、時間は余計にかかり、自信は下がり、成績は変わらなかったことになります。
なお、このメタ分析については2021年に、効果量のコーディングに誤りがあるとの指摘が出ています(Weissgerber & Reinhard, 2021)。ただし指摘した側も、読みにくさに効果があると主張しているわけではありません。数値の正確さに注意が必要だという趣旨です。
「記憶に残る書体」として設計されたフォントも、効果が確認できなかった
2018年、オーストラリアのRMIT大学が「Sans Forgetica」という書体を公開しました。文字の一部を欠けさせ、左に傾けた形状で、記憶を助けることを狙って設計されたものです。世界的に報じられ、日本でも紹介されました。
ところが2020年、ウォーリック大学とウォータールー大学の研究チームが四つの実験で検証したところ、Sans ForgeticaはArialより記憶成績を高めず、条件によってはむしろ下回りました。翌年には別のチームも同様の結論を報告しています(Wetzler, Pyke & Werner, 2021)。読みにくいことは確かでも、記憶が良くなるわけではなかったのです。
「望ましい困難」の提唱者本人が、否定側に回った
ここで注目したいのは、ロバート・ビョークの立場です。ビョークはカリフォルニア大学ロサンゼルス校の記憶研究者で、「望ましい困難(desirable difficulties)」という概念を1994年に提唱した本人にあたります。ディーマンド=ヤウマンらの研究も、この概念を根拠に組み立てられていました。
そのビョークが2016年、追試研究を集めた特集号への解説で、「ディーマンド=ヤウマンらの目を引く効果は、少なくとも一般的な形では再現しない」と結論づけました。提唱者自身が、自分の理論の応用例を否定した形になります。
ただしビョークは、同じ文章の中でもう一つ重要な指摘をしています。読みにくくしても成績が下がらなかった点です。「読みにくくすれば学習が損なわれる」という常識のほうも、データは支持していません。読みにくさは、良くも悪くもほとんど何も起こさなかったわけです。
「望ましい困難」という考え方そのものは間違いなのか
読みにくいフォントが効かないからといって、「あえて難しくする」という発想全体が崩れるわけではありません。むしろ、望ましい困難のうち他の手法は、はるかに大きな証拠に支えられています。
ビョークが強調するのは、desirable(望ましい)という語の重みです。困難であれば何でもよいわけではありません。学習者がその困難に対応できるだけの前提知識を持っていること、そしてその困難が、後で必要になる処理を実際に働かせることが条件になります。
証拠が積み上がっている四つの手法
下の表は、代表的なメタ分析の結果をまとめたものです。gはヘッジズのgと呼ばれる効果量で、小標本の偏りを補正したものです。読み方はdと同じで、0.2で小、0.5で中、0.8で大が目安になります。
| 手法 | やること | 効果量 | 根拠 |
|---|---|---|---|
| 検索練習 | 読み返さず、思い出す | g = 0.61 | 217研究のメタ分析(Adesope et al., 2017) |
| 交互配置 | 似た題材を混ぜて練習する | g = 0.42 | 59研究のメタ分析(Brunmair & Richter, 2019) |
| 生成効果 | 与えられず、自分で答えを作る | d = 0.40 | 86研究のメタ分析(Bertsch et al., 2007) |
| 分散学習 | 間隔をあけて繰り返す | 条件依存 | 317実験の統合分析(Cepeda et al., 2006) |
| 読みにくいフォント | 書体を読みづらくする | d = −0.01 | 25研究のメタ分析(Xie et al., 2018) |
※分散学習を「条件依存」としたのは、最適な間隔がテストまでの期間によって変わるためです。Cepedaらは、テストまでが長いほど、復習の間隔も長くとるべきだと報告しています。単一の数値では表しにくい性質を持ちます。
検索練習については、別のメタ分析でも g = 0.50 という近い値が報告されています(Rowland, 2014)。しかも、テストまでの期間が長いほど効果が大きくなる傾向が確認されています。読み返すより思い出すほうが、時間の経過に強いということです。
効く困難と効かない困難は、何が違うのか
四つの手法と読みにくいフォントを分けているものは何でしょうか。手がかりは、困難が働きかける処理の階層にあります。
知覚の困難と、意味の困難
文字を読むという行為は、大まかに三つの段階に分けられます。文字の形を見分ける知覚処理、意味を理解する意味処理、そして後から思い出す検索処理です。
読みにくいフォントが負荷をかけるのは、最初の知覚処理だけです。文字の判別に手間がかかっても、そこを通過してしまえば、その先の意味理解は同じように進みます。ビョークはこの点について、記憶に効くかどうかを決めるのは「紙や画面の上の情報を知覚した後に起きること」だと述べています。
一方、検索練習や生成効果は、意味処理と検索処理に直接働きかけます。「思い出そうとする」「自分で言葉を組み立てる」という行為は、後で記憶を引き出すときとほぼ同じ処理を使います。この一致が効果を生みます。
材料に合った困難でなければ意味がない
もう一つの鍵は、教材そのものの性質です。マーク・マクダニエルとギルズ・アインシュタインは「材料適合処理(material-appropriate processing)」という枠組みを提案しました。ある困難が役に立つのは、その困難が働かせる処理を、教材がまだ十分に引き出していないときだけだ、という考え方です。
具体例があります。文をばらばらにして正しい順序に並べ替えさせると、説明文では成績が上がります。ところが、おとぎ話のように筋書きが最初から明確な文章では効果がありません。教材がすでに構造を与えてくれているからです。
この視点は、2026年1月に公開された最新の研究とも整合します。マイク・ベーゲらは、教材の「要素間相互作用性」を操作した二つの実験を行いました。要素間相互作用性とは、理解のために同時に頭の中で扱わなければならない要素の数を指す概念です。用語の暗記のように独立した項目が並ぶ教材は低く、複数の要素の関係を同時に把握する必要がある教材は高くなります。
実験の結果、読みにくいフォントの効果は全体としては確認されず、要素間相互作用性が低い教材のときにだけ学習成果が向上しました(実験1は76人、実験2は74人)。難しい内容をさらに読みにくくしても、良いことは起きなかったということです。なお参加者数は少なく、これ一本で結論が決まる規模ではありません。
複雑な内容ほど余計な負荷を減らすべきだという主張は、認知負荷理論の中心にある考え方でもあります。読みにくさの研究は、遠回りをしてこの結論に戻ってきた形になります。
本当に注意すべきなのは、読みやすさが生む「わかったつもり」
ここまでの話は、「読みやすくして問題ない」で終わりそうに見えます。ただし、見落としやすい副作用があります。
先ほどのメタ分析で、読みにくさが自己評価を d = −0.43 下げていた点を思い出してください。裏を返せば、読みやすい資料は自己評価を引き上げます。成績は変わらないのに、理解した感覚だけが強くなるのです。
これは認知流暢性(processing fluency)と呼ばれる現象の一部です。処理がなめらかに進む感覚を、人は理解や真実らしさと取り違えます。美しく整った資料が信用されやすい理由も、同じ仕組みで説明できます。
研修や説明の場で起きるのは、次の流れです。きれいなスライドが流れる。受講者は「わかった」と感じる。だから復習しない。二週間後、何も残っていない。冒頭で紹介した私の失敗も、これに当てはまります。
つまり、対処すべきなのはフォントではありません。「わかったつもり」を放置してしまう設計のほうです。
明日から使える:資料と研修の設計を変える五つの手
読みやすさは維持したまま、記憶に効く困難だけを足します。順に難易度が低い方法から並べます。
1. スライドの終わりに「思い出す1問」を置く
まとめスライドを読み上げる代わりに、質問を1問出します。「先ほどの三つの条件のうち、一つ目は何でしたか」で十分です。答えを口に出す、あるいは紙に書く。これが検索練習にあたります。効果量 g = 0.61 という数字は、この一手間から生まれます。
2. 穴埋め資料を配る
配布資料のキーワードを空欄にしておき、その場で埋めてもらいます。自分で言葉を作る行為が生成効果を呼び込みます。ただし、埋められない難易度にしないことが条件です。困難が望ましくなるのは、学習者が対応できる範囲に収まっているときだけです。
3. 研修の三日後と二週間後に短い復習を送る
3問程度のメールやチャットで足ります。分散学習の効果は、間隔をあけることで生まれます。テストや実務での運用が先になるほど、間隔も長めにとります。学習定着の手法を組み合わせると、さらに効果が安定します。
4. 似たテーマを混ぜて演習する
類型ごとにまとめて練習するより、混ぜたほうが見分ける力がつきます。これが交互配置(g = 0.42)です。営業研修なら、顧客タイプ別に固めるのではなく、順番をばらばらにして提示します。
5. フォントを読みにくくするのはやめる
手間の割に効果が確認されていません。読み手に嫌われる副作用のほうが確実です。あえて負荷をかける設計を考えるなら、負荷の置き場所は書体ではなく、思い出す作業と自分で言葉にする作業のほうです。
よくある質問
読みにくいフォントには、まったく効果がないのですか
「一般的には効果が確認されていない」というのが現在の到達点です。25研究3135人のメタ分析で、記憶への効果は d = −0.01 でした。2026年の研究では、暗記中心の単純な教材に限って効果が見られましたが、参加者は各実験70人台と小規模です。実務で使うだけの根拠には届いていません。
元になった2011年の研究は、間違いだったのですか
捏造や不正が指摘されたわけではありません。実験1の参加者は28人と少なく、偶然の差が出やすい規模でした。その後の追試で同じ結果が得られなかった、というのが実情です。提唱者のビョーク自身も2016年に、一般的な形では再現しないと述べています。
Comic Sansは資料に使ってよいのですか
記憶を助ける根拠はありません。原典の実験ではComic Sansが「読みにくい書体」として使われていた点にも注意が必要です。書体の選択は、記憶ではなく、場面にふさわしい印象と読みやすさで決めるのが妥当です。
読みやすい資料を作ると、かえって学ばれないのでしょうか
資料が読みやすいこと自体は問題になりません。問題になるのは、読みやすさが「わかったつもり」を生み、復習が省かれる流れです。読みやすい資料に、思い出す作業を組み合わせるのが現時点で最も確かな設計です。
望ましい困難は、プレゼンにも使えますか
使えます。ただし、話をわかりにくくすることではありません。途中で問いを投げて考えさせる、要点を聴衆自身の言葉で言い直してもらう、といった形です。記憶の設計という観点では、中断と再開の効果を扱った記事も参考になります。
まとめ
要点を三つに絞ります。
第一に、「読みにくいフォントは記憶に残る」という説は、2011年の小規模な研究に由来し、その後の追試とメタ分析では支持されていません。提唱者のビョーク本人も再現しないと述べています。
第二に、「望ましい困難」という考え方そのものは健在です。検索練習(g = 0.61)、交互配置(g = 0.42)、生成効果(d = 0.40)、分散学習には、大規模なメタ分析の裏づけがあります。効くのは、知覚を邪魔する困難ではなく、意味処理と検索処理を働かせる困難です。
第三に、実務で警戒すべきなのは読みやすさそのものではなく、読みやすさが生む「わかったつもり」です。資料は読みやすいまま、思い出す作業を1問足す。ここから始めるのが確実です。
次の研修資料で、まとめスライドを一枚だけ質問に差し替えてみてください。手間はほとんどかかりません。二週間後の記憶が、そこで変わります。
出典
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