営業、技術、運用、顧客が参加する新サービスの検討会を想像してください。全員が同じ提案書を開いています。営業は「顧客が買う理由」を読み、技術は「実現条件」を読み、運用は「例外処理」を読み、顧客は「自分の仕事がどう変わるか」を探しています。
資料は一つでも、見ている問題は一つではありません。営業が「方向性は合っています」と言い、技術が「仕様が決まっていません」と言うとき、どちらかが資料を読めていないとは限りません。それぞれの仕事で重要な情報が、同じ紙面に十分表現されていないのです。
結論から言えば、部門間の認識をそろえるには、全員へ同じ説明を繰り返すだけでは足りません。各部門が自分の知識と懸念を書き込み、違いと依存関係を見つけ、対象そのものを共同で変えられる「共通物」を設計します。組織研究では、このような役割を果たすものを境界オブジェクト(boundary object)と呼びます。
本稿では、境界オブジェクトの原典と設計・製造現場の研究を基に、資料を「完成品の説明」から「部門間で考える作業面」へ変える方法を解説します。実務への翻訳として、伸滋Design独自のSHARE–MARK–LINK–REVISEを提示します。
境界オブジェクトとは、違う見方のまま協力するための共通物
境界オブジェクトという概念は、Susan Leigh StarとJames Griesemerが、カリフォルニア大学バークレー校の脊椎動物学博物館を研究した論文で広く知られるようになりました。博物館の活動には、研究者、アマチュア採集家、職員、資金提供者など、目的も専門性も異なる人々が関わっていました。それでも、標本、分布図、収集様式などを介して協力できました。
二人は境界オブジェクトを、異なる集団の使い方に合わせられる柔軟性を持ちながら、集団をまたいでも同じ対象だと認識できる程度には一貫したものとして説明しました(Star & Griesemer, 1989)。重要なのは、全員が同じ意味を持つことではありません。違う意味づけを残しながら、同じ対象について作業できることです。
たとえば、新サービスの利用フロー図は、営業にとっては提案範囲を説明する道具、技術にとってはシステム境界を確認する道具、運用にとっては担当と例外を見つける道具、顧客にとっては自分の行動変化を予測する道具になります。用途は違っても、「このサービスがどう動くか」という対象は保たれます。
ただし、共有フォルダに置いた資料が自動的に境界オブジェクトになるわけではありません。Star自身も後の論考で、解釈の柔軟性だけを取り出して概念を広げすぎることに注意を促しました。物が使われる仕事の手順や情報基盤、全体向けの緩やかな形と各現場向けの具体的な形を行き来する関係まで見る必要があります(Star, 2010)。

なぜ「同じ資料を見せる」だけでは噛み合わないのか
知識は、用語集の中ではなく仕事の中に埋め込まれている
Paul Carlileは、新製品開発に関わる営業・設計・製造・生産の四機能を一年にわたって調べました。そこで示されたのは、専門知識が局所的で、日々の実践に埋め込まれ、各部門の成果や利害にも結びついていることでした(Carlile, 2002)。
「顧客価値」「品質」「納期」といった単語を共有しても、意味する行動や判断基準は同じとは限りません。営業の品質は顧客の期待を満たすことかもしれません。設計の品質は仕様を満たすこと、運用の品質は例外が起きても回復できることかもしれません。用語の統一だけで解決できるのは、違いが比較的小さい場合です。
境界には、転送・翻訳・変換の三段階がある
Carlileは後の論文で、知識の境界を三段階に整理しました。共通の語彙が十分なら、情報を転送できます。同じ言葉の解釈が違うなら、互いの文脈を翻訳する必要があります。さらに、優先順位や利害が衝突するなら、既存の知識や計画そのものを変換しなければなりません(Carlile, 2004)。
ここを取り違えると、会議が長くなります。利害が衝突しているのに「もっと丁寧に説明しよう」と情報量を増やしても、相手は納得しません。必要なのは説明ではなく、価格、機能、納期、担当範囲のどれを変えるかという交渉だからです。
図や試作品は、権限関係も運んでくる
工学設計を調べたKathryn Hendersonは、スケッチや図面が設計から生産までの参加を組織する一方、柔軟な解釈の余地が失われると協働を妨げうることを示しました(Henderson, 1991)。またBeth Bechkyは、製造現場の図面や機械が問題解決を媒介するだけでなく、どの職種が仕事を定義する権限を持つかを強めたり変えたりすることを報告しています(Bechky, 2003a)。
つまり、見栄えの良い完成図が常に良いとは限りません。変更できない完成図を設計部門が提示すると、他部門は「確認者」に押し込められます。余白のある試作図へ各部門が注釈し、変更案を比較できれば、知識が意思決定へ参加できます。
良い境界オブジェクトが備える四つの条件
1.共通の対象と意思決定が見える
「売上を伸ばす」「使いやすくする」のような抽象目標では、部門ごとに別の成功像を置けます。対象を「初回問い合わせから契約後30日までの顧客体験」、決めることを「試験導入で残す機能と外す機能」のように限定します。共通物は何を話す場所かだけでなく、何を決める場所かを示す必要があります。
2.各部門の知識と懸念を表現できる
Carlileの現場研究では、有効な境界オブジェクトには、知識を表す共通の書式があり、違いと依存関係を具体化でき、必要なら知識や対象を共同で変えられるという特徴がありました。リポジトリ、標準様式、図面、模型、地図には、それぞれ得意な境界があります。
たとえば、要件一覧は既知情報の転送に向きます。しかし、顧客の使い方と運用例外の関係を学ぶには、画面試作や利用フローの方が適切です。資料の形式は、伝えたい情報量ではなく、参加者が表現すべき知識から選びます。
3.差と依存関係を比べられる
部門別の意見を四つのページへ分けただけでは、並列に置かれたままです。「機能Aを増やすと営業の提案価値は上がるが、運用の確認工程が二つ増える」のように、選択と結果を同じ場所へ結びます。Bechkyが製造現場で観察したのも、言語、仕事を行う場所、製品の捉え方の違いを持ち寄り、共通基盤を共同で作る過程でした(Bechky, 2003b)。
4.共同で変更でき、変更履歴が残る
境界オブジェクトは説明会の小道具ではなく、協働の作業面です。参加者が注釈、代案、条件を加えられ、採用した変更と見送った変更が残るようにします。設計組織の三つの事例を扱った研究では、技術や組織構造、市場が変わると、それまで機能した図・模型・試作品が有効でなくなり、共通基盤を作り直す必要があると論じられています(Subrahmanian et al., 2003)。
伸滋Design独自の「SHARE–MARK–LINK–REVISE」
研究知見を提案書、サービス設計、共同研究、業務改善へ翻訳するため、境界オブジェクトを作って使う流れを四段階に整理します。SHARE–MARK–LINK–REVISEは学術理論名ではなく、伸滋Design独自の実務フレームです。
SHARE:共有する対象と、今日決めることを一文にする
最初に「誰が正しいか」ではなく、全員が依存している対象を置きます。例は顧客体験、試作品、業務フロー、評価表、ロードマップです。タイトルを「新サービスについて」ではなく、「試験導入で顧客・営業・運用が守る範囲を決める」のような意思決定文にします。
MARK:各部門が、意味・懸念・不足を同じ物へ記す
口頭討議の前に、参加者が個別に書き込みます。色は部門ではなく観点で分けると、立場の対立を固定しにくくなります。たとえば、青は「顧客価値」、橙は「実現条件」、緑は「運用条件」、赤は「不明・要検証」です。各注釈には「誰の、どの場面で、何が起きるか」を添えます。
LINK:違いを依存関係とトレードオフへつなぐ
似た意見をまとめるだけで終わらず、矢印で因果や依存を結びます。「説明を短くする」なら、営業工数は下がるが、顧客の初期設定ミスが増える可能性があります。「入力項目を増やす」なら、技術判断は正確になるが、問い合わせ離脱が増えるかもしれません。各案について、得るもの、失うもの、未確認のものを同じ面に置きます。
REVISE:共通物と計画を、その場で変える
最後に、図や試作品だけでなく、決定、担当、検証方法まで更新します。編集権限が一部門にしかない場合は、修正担当者が会議中に反映し、全員が変更結果を確認します。誰も変更できない資料は、議論を集めても知識の変換まで進めません。
部門間で「誰が何を知っているか」が見えていない場合は、先にトランザクティブ・メモリーの記事で専門知の所在を確認してください。本稿は知識の所在ではなく、異なる知識を一つの対象上で接続する段階を扱います。
具体例:研究シーズの事業化を一枚で検討する
研究者が開発した計測技術を、企業向けサービスとして試験導入する場面を考えます。研究者は測定精度、営業は顧客課題、運用担当は測定時間と教育、顧客は既存工程への影響を重視しています。通常の提案書では、研究原理、性能、用途、市場規模が順番に説明されます。しかし、各部門の依存関係はページをまたいで隠れます。
そこで一枚の「試験導入マップ」を作ります。中央に、顧客が試料を準備してから結果を意思決定へ使うまでの流れを置きます。上段に顧客が得る価値、下段に必要な技術・運用条件、右端に継続判断の指標を配置します。
- SHARE:「8週間の試験で、どの顧客工程を対象にし、継続判断に何を測るか」を決定文にする。
- MARK:研究者は精度が下がる条件、営業は顧客が価値を感じる瞬間、運用は必要時間、顧客は止められない工程を個別に記す。
- LINK:高精度な測定条件と顧客の処理速度、丁寧な説明と担当者の拘束時間などを矢印で結ぶ。
- REVISE:対象試料を二種類から一種類へ絞り、結果報告を週次から二週ごとへ変え、継続指標に「判断時間の短縮」を加える。

この一枚の目的は、全員が同じ見解になることではありません。研究者が精度を守り、顧客が工程を守るという違いを残したまま、両者が依存する条件を変更可能な形にすることです。専門外の相手へ研究価値を翻訳する方法は、産学連携で研究シーズを見せる5原則とも接続します。
境界オブジェクトの限界と、過剰な期待を避ける
「使えば成功率が上がる」とは言えない
主要な研究は、博物館、製造業、設計、情報システム、参加型人間工学などの質的研究や事例研究です。参加者、課題、組織文化が異なる現場へ、効果量をそのまま一般化することはできません。参加型人間工学の二事例も、物の性質だけでなく、その選び方や使われる文脈が重要だと報告しています(Broberg, Andersen & Seim, 2011)。
物だけでは、権力差を消せない
共同編集できると言いながら、最終決定者が他部門の注釈を無視すれば、共通物は参加を演出する道具になります。顧客や現場の意見を採用しない場合も、理由と判断者を残します。LevinaとVaastの二つのフィールド研究では、境界をまたぐ能力は、役職名や物の配置だけでなく、関係者が実践を部分的に変え、共同の活動領域を作る過程から生まれていました(Levina & Vaast, 2005)。
詳しすぎる共通物は、誰の仕事にも合わなくなる
一枚へすべてを書こうとすると、専門家には粗く、非専門家には複雑な資料になります。全体を共有する上位図と、各部門が使う詳細図を分け、同じID、工程名、判断指標で結びます。見出しやリンクから必要な詳細へ進める設計は、情報の匂いを使った資料設計を参照してください。
境界オブジェクト設計チェックリスト
- 共有する対象が「計画全体」ではなく、具体的な体験・工程・試作品・判断表になっているか
- 今日決めることを一文で言えるか
- 営業、技術、運用、顧客など、対象に依存する立場がそろっているか
- 各立場が自分の知識、懸念、評価基準を書き込めるか
- 用語の意味が違うとき、具体例や条件まで戻って確認できるか
- 意見の一覧だけでなく、依存関係とトレードオフが見えるか
- 得るもの、失うもの、未確認のものが同じ面にあるか
- 参加者が代案を加え、対象そのものを変更できるか
- 採用・見送りの判断と理由が記録されるか
- 全体図と部門別の詳細資料が、共通のIDや指標でつながっているか
- 組織、技術、市場、参加者が変わったとき、共通物を見直す予定があるか
- 最終決定者と編集権限が明示され、参加を装うだけになっていないか
まとめ:良い資料は、違いを消すのではなく作業可能にする
同じ資料を見ていることと、同じ問題を見ていることは違います。専門性が高い組織ほど、知識は各部門の仕事、評価、責任へ深く埋め込まれます。そこで必要なのは、全員を一つの見方へ統一する資料ではありません。
SHAREで共通の対象と決定を置き、MARKで各立場の意味と懸念を記し、LINKで差を依存関係へ変え、REVISEで共通物と計画を共同更新する。境界オブジェクトの価値は、情報をきれいにまとめることではなく、異なる知識が意思決定へ参加できる形をつくることにあります。
「会議ごとに同じ説明を繰り返している」「営業・技術・顧客で資料の読み方が違う」「図はあるのに判断が進まない」という場合は、まず3分でできる伝達ロス診断で、どの境界で情報が失われているかを確認できます。提案書、サービス設計、共同研究資料を、複数の専門家が一緒に考えられる構造へ整えたい方は、伸滋Designの戦略的構成設計・情報可視化サービスをご覧ください。
参考文献
- Star, S. L., & Griesemer, J. R. (1989). Institutional Ecology, ‘Translations’ and Boundary Objects: Amateurs and Professionals in Berkeley’s Museum of Vertebrate Zoology, 1907–39. Social Studies of Science, 19(3), 387–420. https://doi.org/10.1177/030631289019003001
- Star, S. L. (2010). This is Not a Boundary Object: Reflections on the Origin of a Concept. Science, Technology, & Human Values, 35(5), 601–617. https://doi.org/10.1177/0162243910377624
- Carlile, P. R. (2002). A Pragmatic View of Knowledge and Boundaries: Boundary Objects in New Product Development. Organization Science, 13(4), 442–455. https://doi.org/10.1287/orsc.13.4.442.2953
- Carlile, P. R. (2004). Transferring, Translating, and Transforming: An Integrative Framework for Managing Knowledge Across Boundaries. Organization Science, 15(5), 555–568. https://doi.org/10.1287/orsc.1040.0094
- Henderson, K. (1991). Flexible Sketches and Inflexible Data Bases: Visual Communication, Conscription Devices, and Boundary Objects in Design Engineering. Science, Technology, & Human Values, 16(4), 448–473. https://doi.org/10.1177/016224399101600402
- Bechky, B. A. (2003a). Object Lessons: Workplace Artifacts as Representations of Occupational Jurisdiction. American Journal of Sociology, 109(3), 720–752. https://doi.org/10.1086/379527
- Bechky, B. A. (2003b). Sharing Meaning Across Occupational Communities: The Transformation of Understanding on a Production Floor. Organization Science, 14(3), 312–330. https://doi.org/10.1287/orsc.14.3.312.15162
- Levina, N., & Vaast, E. (2005). The Emergence of Boundary Spanning Competence in Practice: Implications for Implementation and Use of Information Systems. MIS Quarterly, 29(2), 335–363. https://doi.org/10.2307/25148682
- Subrahmanian, E., et al. (2003). Boundary Objects and Prototypes at the Interfaces of Engineering Design. Computer Supported Cooperative Work, 12(2), 185–203. https://doi.org/10.1023/A:1023976111188
- Broberg, O., Andersen, V., & Seim, R. (2011). Participatory Ergonomics in Design Processes: The Role of Boundary Objects. Applied Ergonomics, 42(3), 464–472. https://doi.org/10.1016/j.apergo.2010.09.006
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