社内にNotionやSharePointを導入し、会議議事録、提案書、顧客対応履歴を蓄積している。それでも新しい案件が始まるたびに、「この業界に詳しい人は誰だろう」「前にも似た失敗がなかったか」「法務へは、いつ相談すればよいか」という探索が起きます。情報はあるのに、判断へつながらない状態です。
原因の一つは、ナレッジ共有を「全員が同じ情報を持つこと」や「文書を一か所に集めること」と捉えている点にあります。複雑な仕事では、誰もがすべてを覚えることはできません。必要なのは、知識そのものに加えて、誰が何を知っていて、その知識をどの場面で、どう呼び出せるかをチームで共有することです。
結論から言えば、ナレッジ共有の設計対象は「知識の倉庫」だけではなく「知識へたどり着く経路」です。この考えを説明するのが、トランザクティブ・メモリー・システム(Transactive Memory System、以下TMS)です。本稿では基礎研究と組織研究を整理し、伸滋Design独自の実務フレーム「WHO–TRUST–ROUTE」で、知識の所在・信頼・呼び出し経路を設計する方法を解説します。
トランザクティブ・メモリーとは何か
TMSは、一人の頭の中だけで完結しない「共同の記憶の仕組み」です。メンバーAが顧客業界に詳しく、Bが数値分析に詳しく、Cが契約条件に詳しいとします。三人全員がすべてを暗記する代わりに、「この問題なら誰に聞けばよいか」を共有していれば、チームは分散した知識を一つのシステムのように使えます。
Daniel Wegnerらは1991年、親しい関係にある二人が情報をどう分担し、思い出すかを実験しました。自然なカップルは、その場で組んだペアよりも、自由に分担できる条件で多くの項目を再生しました。一方、外部から記憶分担を指定されると、この優位性は崩れました。単に役割を割り当てればよいのではなく、相手の得意分野について蓄積された理解と分担の仕方が働いていると考えられます(Wegner, Erber & Raymond, 1991)。
組織研究では、Kyle LewisがTMSを測る15項目の尺度を開発し、主な構成要素を専門性の分化、専門性への信頼、仕事の調整として整理しました。実験室のチーム、MBAのコンサルティングチーム、企業の技術チームを用いた検証で、尺度の信頼性と妥当性が検討されています(Lewis, 2003)。

つまり、TMSは単なる「社員名簿」ではありません。誰が詳しいかを知るだけでなく、その判断を信頼でき、必要な仕事の中で知識を受け渡せることまで含みます。専門家一覧を作って終わりにすると、所在は見えても実際の相談は起きないのです。
全員にすべてを教えるほど、共有が進むとは限らない
ナレッジ共有の施策では、同じ研修を全員に受けてもらい、同じ資料を全員へ配る方法が選ばれがちです。共通知識を作る目的には有効ですが、複雑な仕事のすべてを均等に覚える設計には限界があります。情報量が増えるほど、更新の負担も「自分に必要な情報」を見つける負担も大きくなるからです。
Morelandらの研究では、ラジオ組立を一緒に訓練したグループは、個別に訓練してから集められたグループより、部品の記憶と組立成績が優れていました。その差には、メンバーの専門性、信頼、協働調整からなるTMSが関わっていました(Liang, Moreland & Argote, 1995)。同じ内容を個々人へ入力するだけでなく、一緒に作業しながら「誰がどの領域を担えるか」を学ぶことが重要だと示唆します。
さらに、RulkeとRauはグループ訓練の会話を分析し、TMSの高いグループでは、メンバーが自分の専門性を早い段階で表明し、その後の相互評価が発達していたと報告しました(Rulke & Rau, 2000)。「詳しい人は察してもらえる」という前提ではなく、専門性を言語化し、周囲が確かめられる場面が必要です。
ここから実務上の原則が見えてきます。共有すべきものは、資料そのものだけではありません。資料の意味を判断できる人、判断できる範囲、相談すべき条件も共有します。全員が同じ知識量を持つことを目指すのではなく、チームとして必要な知識へ確実にアクセスできることを目標にします。
ナレッジベースだけでは埋まらない三つの穴
1.所在の穴――検索語がわからない
初学者ほど、何を検索すればよいかがわかりません。顧客から曖昧な相談を受けても、社内文書で使われる専門用語へ変換できず、検索結果へたどり着けないことがあります。文書の分類を整えるだけでなく、「この種類の判断は誰が入口になるか」という人の索引が必要です。
2.信頼の穴――古さと適用範囲がわからない
見つけた資料が最新か、別業界にも当てはまるか、確定した方針なのか個人の見解なのか。ファイルだけでは判断しにくい情報があります。専門家の名前があっても、その人がいつの経験を基に、どの範囲まで判断できるのかが不明なら、相談する側は動けません。
3.経路の穴――いつ、どう相談するかがわからない
「困ったら法務へ」「必要ならデザイナーへ」という案内は、実務では遅すぎます。契約書が完成してから法務へ、スライドが完成してからデザイナーへ相談すれば、やり直しが増えます。どの判断の前に、どんな情報を添えて、どの窓口へ渡すかという呼び出し経路まで設計する必要があります。
この三つは、コミュニケーション非対称性とも関係します。相談する側と専門家側では、用語、背景知識、言語化の負担が同じではありません。専門家を一覧化するだけでなく、相談の入口を質問形式や具体例で示せば、最初の一歩を軽くできます。
科学的根拠:TMSはチームの成果とどう関係するのか
Austinは、継続して活動する複数の組織チームを対象に、TMSの内容、合意、専門化、正確さと業績の関係を調べました。知識の配置に関する理解は、チーム目標の達成や内外の評価と関連していました(Austin, 2003)。重要なのは「誰が詳しいと思われているか」だけでなく、その認識がどれだけ正確で、チーム内で共有されているかです。
Lewisは64のMBAコンサルティングチームを追跡し、分散した専門知識、メンバー同士の親密さ、対面コミュニケーションなどがTMSの形成とどう関係するかを分析しました。形成されたTMSはチームの存続可能性や成果と関連しました(Lewis, 2004)。ただし、2004年当時の研究であり、対面と現在のハイブリッド環境を単純比較できるものではありません。
またLewisらは、過去の共同経験で作られたTMSが新しい課題の学習へ移る条件を実験しました。同じ領域で複数の課題を経験し、専門性を担うメンバーが継続する場合、チームは課題を超えた理解を作り、学習を転用しやすくなりました。一方、一度の経験だけでは強い転移効果が確認されませんでした(Lewis, Lange & Gillis, 2005)。成功事例を一度共有しただけで「組織学習が完了した」とみなさず、複数案件で知識経路を使い直すことが必要です。
Hollingsheadの実験は、誰がどの情報を学ぶかというコミュニケーションが、後の情報検索に影響することを示しました。学習時と検索時のコミュニケーション条件が合うほど、情報を取り出しやすい場面がありました(Hollingshead, 1998)。「保存したから共有済み」ではなく、使うときの呼び出し方まで含めて設計する必要があります。
これらの知見は、集合知を成果へ変える条件を、知識の配置という側面から補います。多様な知識を集めるだけでは十分ではありません。誰の知識を、いつ、どう組み合わせるかが明確でなければ、会議には情報があっても判断は進みません。
伸滋Design独自の「WHO–TRUST–ROUTE」
研究上の構成要素を実務へ翻訳するため、伸滋Designでは編集上の実務フレームとしてWHO–TRUST–ROUTEを提案します。これは学術理論の名称ではなく、知識共有の詰まりを三段階で診断するための設計手順です。

WHO――「誰が詳しいか」を判断単位で表す
スキル一覧に「マーケティング」「デザイン」と書くだけでは粗すぎます。「BtoB提案の意思決定者整理」「定量調査の設問設計」「契約上の知的財産の確認」のように、実際の判断や成果物の単位で専門性を表します。
各領域には、主担当と副担当を置きます。主担当だけに知識を閉じ込めないためです。役職ではなく、現在の経験と確認できる成果物を基準にし、本人の自己申告だけで固定しません。四半期や大きな案件の後に更新できる軽い一覧にします。
TRUST――信頼できる範囲と根拠を添える
専門家カードには、名前だけでなく「判断できること」「判断できないこと」「根拠となる最近の案件や資格・担当」「最終更新日」を添えます。これは人を格付けするためではありません。専門性の適用範囲を透明にし、相談する側が過剰にも過少にも期待しないようにするためです。
会議では、結論だけでなく確信度と前提条件も短く共有します。「過去3案件では有効。ただし医療領域への適用経験はない」といった限界が見えると、専門性への信頼は盲信ではなく検証可能な信頼になります。意見の相違も、人格ではなく前提の違いとして扱いやすくなります。
ROUTE――相談のトリガーと受け渡しを決める
「いつでも相談してください」ではなく、相談が必要になるトリガーを決めます。たとえば「見積額が一定範囲を超える前」「顧客へ初稿を出す前」「個人情報を取得する設問を作る前」です。相談時に渡す情報をテンプレート化し、窓口、回答期限、代替担当も示します。
ROUTEは人を会議へ増やす仕組みではありません。すべての専門家をすべての会議に招待すると、時間が失われます。判断の直前に必要な人へ短く接続し、その知識が成果物へ反映されたかを確かめる仕組みです。
具体例:提案プロジェクトの知識ルーティング
新規顧客への提案を例に考えます。営業は顧客の意思決定構造、リサーチ担当は市場データの妥当性、デザイナーは情報の優先順位と視覚化、法務は表現リスクに詳しいとします。従来の進め方では、営業が一人で初稿を作り、完成間際に全員へレビューを依頼します。コメントが衝突し、修正の優先順位もわからなくなります。
WHO–TRUST–ROUTEでは、最初に四つの判断を分けます。「誰に何を言うか」は営業、「数値の根拠」はリサーチ、「順序と見せ方」はデザイナー、「約束表現の境界」は法務が主担当です。各担当は判断できる範囲と根拠を示し、営業だけが顧客固有の最終判断を担います。
次に相談トリガーを置きます。構成案の段階でデザイナーへ、数値を主張へ使う前にリサーチ担当へ、保証や成果を約束する表現を書く前に法務へ渡します。完成後の一斉レビューではなく、やり直しが小さい段階で必要な知識を呼び出します。会議参加者を増やさずに、判断へ入る専門性を増やせます。

案件後には「誰の、どの知識が、どの判断で役立ったか」を5分で更新します。担当者名だけでなく、判断単位と成果物へのリンクを残します。次のチームは、過去資料を読むだけでなく、その資料の前提を説明できる人へたどり着けます。
導入するときの注意点:専門分化を属人化にしない
TMSは「一つのことを一人だけが知っていればよい」という理論ではありません。重要業務を単独の専門家へ依存させると、休職、異動、退職で経路が切れます。重大な判断には副担当を置き、手順、前提、最終成果物は文書として残します。人の索引と文書の倉庫は競合するのではなく、互いを補います。
専門性の評価を固定すると、過去の評判が現在の能力より強くなり、新しいメンバーの知識が見落とされます。「誰が詳しいか」を定期的に更新し、実際の仕事で確かめる小さな機会を作ります。発言量の多さ、役職、在籍年数だけを専門性の代理にしないことも重要です。
また、知識の所在が見えても、相談したことで否定されたり、評価を下げられたりする環境では経路は使われません。心理的安全性の科学で扱ったように、質問、懸念、失敗を表明できる対人環境が必要です。ルート図だけを作るのではなく、「早い相談を評価する」運用まで含めます。
科学的根拠の限界
TMS研究は有用ですが、組織へ導入する際には限界があります。第一に、基礎研究には恋人ペア、小規模な実験チーム、ラジオ組立のように境界が明確な課題が多く含まれます。数百人規模の分散組織や、正解が変化し続ける事業へ同じ効果量を期待することはできません。
第二に、TMSと成果の関係は、どのチームでも一定ではありません。Bachrachらによる76の実証研究、6,869の分析単位を含むメタ分析では、TMSと成果の関係に文脈差があり、文化などの条件で強さが変わりました。リーダーシップや人的資本はTMSと正の関係を示す一方、情報や性別の多様性はTMS形成と負の関連を示しました(Bachrach et al., 2019)。これは多様性が悪いという意味ではありません。多様な専門性や背景を持つチームほど、「誰が何を知っているか」という共通理解を意図的に作る必要がある、と読むべき結果です。
第三に、専門性の認識が誤っていれば、TMSは誤った人へチームを誘導します。自信の強さと専門性を混同したり、古い担当履歴を更新しなかったりすれば、経路はあっても判断の質が下がります。WHOには実績の確認、TRUSTには適用範囲と更新日、ROUTEには副担当と検証点が必要です。
第四に、TMSは万能な評価指標ではありません。成果が高いチームだから互いの専門性を学べたという逆方向の影響や、リーダーシップ、資源、課題難易度などの第三要因も考えられます。本稿のフレームは研究結果を実務へ翻訳した仮説であり、各組織では探索時間、相談の早さ、手戻り、判断品質を測りながら調整する必要があります。
知識ルーティングのチェックリスト
- ナレッジ共有の目標を「保存件数」ではなく「必要な判断へ到達できること」で定義しているか
- 専門性を部門名ではなく、実際の判断や成果物の単位で表しているか
- 重要領域に主担当と副担当がいるか
- 誰が詳しいかについて、チーム内の認識が一致しているか
- 専門性の根拠、適用範囲、最終更新日が確認できるか
- 質問する側が専門用語を知らなくても、相談窓口へたどり着けるか
- 「困った後」ではなく「重要な判断の前」に相談トリガーがあるか
- 相談時に渡す情報、回答期限、代替担当が決まっているか
- 専門家をすべての会議へ呼ばず、必要な判断だけに接続できるか
- 案件後に、誰のどの知識が役立ったかを更新しているか
- 重要な知識を一人だけに閉じず、文書と実践で継承しているか
- 早い質問や不確実性の共有が評価される環境になっているか
まとめ:知識を集めるだけでなく、呼び出せる組織へ
ナレッジ共有が失敗するのは、情報が足りないからとは限りません。誰が何を知っているかが見えず、その知識を信頼できる範囲がわからず、判断の前に呼び出す経路がないことが原因になります。
TMSが示すのは、全員の頭を同じにする必要はないということです。専門性を分担し、その所在を正確に共有し、互いを信頼し、必要な仕事の中で調整できれば、チームは個人の記憶を超えた知識システムとして働きます。
まずWHOで判断単位の専門性を見える化し、TRUSTで根拠と限界を確かめ、ROUTEで相談のトリガーと受け渡しを決める。社内ポータルを作り直す前に、直近の一案件で「誰の知識を、どの判断の前に呼ぶべきだったか」を振り返るところから始められます。
「資料はあるのに意思決定が遅い」「会議へ人を集めても専門知がつながらない」「担当者が変わるたびに提案品質が揺れる」と感じる場合、問題は情報量ではなく知識の経路にあるかもしれません。伸滋Designでは、経営者・専門家の複雑な知識を、組織や顧客が判断できる構造へ変える支援を行っています。まずは3分でできる伝達ロス診断で詰まりを確認し、具体的なご相談はお問い合わせページからお寄せください。
参考文献
- Wegner, D. M., Erber, R., & Raymond, P. (1991). Transactive Memory in Close Relationships. Journal of Personality and Social Psychology, 61(6), 923–929. https://doi.org/10.1037/0022-3514.61.6.923
- Liang, D. W., Moreland, R. L., & Argote, L. (1995). Group Versus Individual Training and Group Performance: The Mediating Role of Transactive Memory. Personality and Social Psychology Bulletin, 21(4), 384–393. https://doi.org/10.1177/0146167295214009
- Rulke, D. L., & Rau, D. (2000). Investigating the Encoding Process of Transactive Memory Development in Group Training. Group & Organization Management, 25(4), 373–396. https://doi.org/10.1177/1059601100254004
- Lewis, K. (2003). Measuring Transactive Memory Systems in the Field: Scale Development and Validation. Journal of Applied Psychology, 88(4), 587–604. https://doi.org/10.1037/0021-9010.88.4.587
- Austin, J. R. (2003). Transactive Memory in Organizational Groups: The Effects of Content, Consensus, Specialization, and Accuracy on Group Performance. Journal of Applied Psychology, 88(5), 866–878. https://doi.org/10.1037/0021-9010.88.5.866
- Lewis, K. (2004). Knowledge and Performance in Knowledge-Worker Teams: A Longitudinal Study of Transactive Memory Systems. Management Science, 50(11), 1519–1533. https://doi.org/10.1287/mnsc.1040.0257
- Lewis, K., Lange, D., & Gillis, L. (2005). Transactive Memory Systems, Learning, and Learning Transfer. Organization Science, 16(6), 581–598. https://doi.org/10.1287/orsc.1050.0143
- Hollingshead, A. B. (1998). Communication, Learning, and Retrieval in Transactive Memory Systems. Journal of Experimental Social Psychology, 34(5), 423–442. https://doi.org/10.1006/jesp.1998.1358
- Bachrach, D. G., Lewis, K., Kim, Y., Patel, P. C., Campion, M. C., & Thatcher, S. M. B. (2019). Transactive Memory Systems in Context: A Meta-Analytic Examination of Contextual Factors in Transactive Memory Systems Development and Team Performance. Journal of Applied Psychology, 104(3), 464–493. https://doi.org/10.1037/apl0000329
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