「人はなぜ物語に心を動かされ、行動を変えるのか?」その答えは、脳内の神経伝達物質に隠されています。神経経済学者ポール・ザックの研究は、効果的な物語構造が脳内でコルチゾール(注意)とオキシトシン(共感)を分泌させ、寄付や協力といった具体的な行動を予測することを実証しました。本稿では、さらにドーパミン(報酬)の役割を加えた「神経化学的ファネル」を提唱します。単なる直感や経験則を超え、読者の脳内ホルモンを戦略的にデザインして行動を促す、科学的アプローチによる新しい文章術を解説します。
序論:合理的経済人の終焉と神経科学的アプローチの台頭
1.1 パラダイムシフト:情報の伝達から生化学的介入へ
現代のコミュニケーション理論、とりわけマーケティングやリーダーシップの領域において、長らく支配的であった前提が崩れ去ろうとしている。それは、「人間は合理的な意思決定主体であり、十分な情報と論理的な説得があれば、最適な行動を選択する」という、古典派経済学的な人間観である。しかし、過去数十年にわたる神経科学、心理学、そして経済学の融合領域——「神経経済学(Neuroeconomics)」——の発展は、この前提を根底から覆した。
クレアモント大学院大学の神経経済学研究センター(Center for Neuroeconomics Studies)を率いるポール・ザック(Paul J. Zak)博士の研究は、このパラダイムシフトの象徴である。彼の研究は、人間の意思決定、特に「信頼(Trust)」や「寄付(Donation)」といった向社会的行動が、論理的思考を司る大脳新皮質の独壇場ではなく、より原始的な脳領域で分泌される神経伝達物質によって深く規定されていることを明らかにした1。
1.2 本報告書の目的と構成
本報告書は、「伝わるを科学する」というウェブコラムのテーマとして予定されている「オキシトシンと共感の生化学」について、その科学的基盤から実践的応用までを網羅的に分析するものである。特に、ザック博士が提唱する「物語(Narrative)」がいかにして脳内の生化学的スイッチを押し、受容者の行動を変容させるかというメカニズムを詳解する。
本稿では、単に「感動すればモノが売れる」という経験則を追認するのではなく、その背後にある生化学的プロセスを「コルチゾール(注意)」、「オキシトシン(共感)」、「ドーパミン(報酬)」という3つの主要な物質に分解し、従来のマーケティングファネルを「神経化学的ファネル(Neurochemical Funnel)」として再構築することを目的とする。これにより、読者は「読むだけでホルモンが出る」文章術の科学的根拠と、その具体的な実装方法を体系的に理解することが可能となる。
第1章:オキシトシン研究の系譜と「道徳的分子」の発見
1.1 オキシトシンの生理学的基礎
オキシトシン(Oxytocin)は、視床下部で合成され、脳下垂体後葉から分泌される9個のアミノ酸からなるペプチドホルモンである。1906年にヘンリー・デールによって発見されて以来、長きにわたり、その役割は哺乳類の生殖機能に限定されると考えられてきた。具体的には、分娩時の子宮収縮の促進や、授乳時の射乳反射(母乳の分泌)を司るホルモンとしての機能である2。
しかし、1990年代以降の動物行動学の研究、特にプレーリーハタネズミ(Prairie Vole)を用いた研究により、オキシトシンが「つがい形成(Pair bonding)」や「母性行動」といった社会的な絆の形成に不可欠であることが示唆され始めた。一夫一婦制を維持するプレーリーハタネズミの脳内ではオキシトシン受容体が豊富に発現しているのに対し、乱婚制のサンガクハタネズミではそれが乏しいという事実は、この分子が「社会性」の生物学的基盤であることを強く示唆していた3。
1.2 ポール・ザックと「信頼」の神経経済学
ポール・ザックの研究チームは、この動物実験の知見を人間社会へと拡張した。彼らの問いは、「血縁関係のない赤の他人同士が、なぜ協力し、取引し、信頼し合えるのか?」という、経済活動の根本的な謎に向けられた。
ザックは、人間が他者から信頼されたと感じた瞬間、脳内でオキシトシンが合成され、それが返報性(Reciprocity)——つまり、信頼に応えようとする行動——を動機づけることを世界で初めて実証した1。彼はこのメカニズムを「HOME(Human Oxytocin-Mediated Empathy)」と呼び、オキシトシンこそが社会契約や道徳的行動を支える「道徳的分子(The Moral Molecule)」であると提唱した5。
| 特性 | 古典的理解 | 神経経済学的理解(Zakらによる) |
| 主な機能 | 分娩誘発、射乳 | 社会的信頼、共感、寛大さの促進 |
| 対象関係 | 母子間、性的パートナー間 | ストレンジャー(他人)間、集団内 |
| 行動への影響 | 生理的反射 | 向社会的行動(寄付、協力、購入) |
| トリガー | 身体的接触、授乳 | 信頼のシグナル、物語(ナラティブ) |
この発見は画期的であった。なぜなら、物理的な接触や直接的な対人相互作用がなくとも、特定の情報入力(例えば、ビデオを見ることや文章を読むこと)によって、脳内の化学的状態を変化させ、行動を誘導できる可能性を示したからである。
第2章:「Ben’s Story」実験:物語が脳を変えるメカニズム
ザックの研究において、物語と行動変容の因果関係を決定づけたのが、「Ben’s Story(ベンの物語)」を用いた一連の実験である。この実験は、抽象的な「感動」という現象を、測定可能な「生化学的データ」と「経済的行動」に変換した点で極めて重要である。
2.1 実験デザイン:感情的物語 vs 平坦な物語
実験では、被験者に対して2種類の異なる動画を見せ、その前後の血液中のホルモン濃度(オキシトシンおよびコルチゾール)の変化を測定した。さらに、動画視聴後に、実験の参加謝礼の一部を他人やチャリティーに寄付する機会を与え、その金額を行動変容の指標とした1。
A. 感情的物語(Emotional Narrative: “Ben’s Story”)
この動画は、末期の脳腫瘍を患う2歳の少年ベンと、その父親の物語である。
- 構造:父親がベンの愛らしさを語りつつ、同時に彼に残された時間がわずかであるという絶望的な事実、そして息子の前では笑顔でいなければならないという葛藤を吐露する。
- 要素:キャラクターへの注目、不可避な死という葛藤、父親の苦悩、そして受容。
B. 平坦な物語(Flat Narrative: Control)
対照群として用いられた動画は、同じ父と子が動物園を散歩する様子を淡々と映したものである。
- 構造:癌についての言及はなく、死の予感も、父親の内的葛藤も語られない。単なる日常の風景。
- 要素:事実の羅列、葛藤の欠如、感情的な起伏のなさ。
2.2 生化学的測定結果:二相性の反応
実験の結果、物語の構造の違いが、劇的に異なるホルモン反応を引き起こすことが明らかになった。
- コルチゾール(Cortisol)の上昇:「Ben’s Story」を見た被験者は、物語の進行に伴い、ストレスホルモンであるコルチゾール(またはその前駆体であるACTH)の濃度が上昇した8。これは、父親の苦悩や少年の死という「危機的状況」に対し、脳が「注意(Attention)」のリソースを集中させたことを意味する。ザックによれば、物語における「葛藤(Conflict)」や「緊張(Tension)」が、このコルチゾール反応のトリガーとなる。
- オキシトシン(Oxytocin)の上昇:続いて、被験者の血中オキシトシン濃度も有意に上昇した。これは、苦しんでいる父親や少年に対する「共感(Empathy)」や「感情移入」の生物学的表れである。一方、平坦な物語を見たグループでは、コルチゾールもオキシトシンも有意な変化を示さなかった1。
2.3 行動への影響:ホルモンは寄付額を予測する
最も重要な発見は、この生化学的変化が、その後の行動を強力に予測した点である。
- 寄付行動との相関:コルチゾールとオキシトシンの両方が上昇した被験者は、そうでない被験者に比べて、寄付をする確率が高く、かつ寄付金額も大きかった。
- 予測精度:血中のオキシトシン濃度の上昇率は、寄付金額と強い正の相関を示した。一部の実験では、オキシトシンの放出量だけで、誰がいくら寄付するかを統計的に予測することさえ可能であった7。
- 行動の大きさ:「Ben’s Story」を見てオキシトシンが分泌された被験者は、平均して謝礼の半分を寄付した事例もあった7。
この研究は、「物語の構造(キャラクター→葛藤→解決)」が、脳内の「アテンション(注意)」と「エンパシー(共感)」のシステムを順次起動させるスイッチであることを示している。まず、コルチゾールが分泌されることで注意が喚起され、続いてオキシトシンが分泌されることで感情移入が起こり、最終的に協力行動(寄付)へとつながるのである1。
第3章:神経化学的ファネルの構築(理論編)
従来のマーケティングや説得の理論では、「AIDMA(Attention, Interest, Desire, Memory, Action)」や「AISAS」といった心理的変容モデルが用いられてきた。しかし、ザックの研究に基づけば、これらの心理状態はすべて、特定の神経伝達物質の支配下にある現象として再定義できる。
本報告書では、ユーザーに行動(購入、登録、寄付)を促すための新しいフレームワークとして、神経化学的ファネル(Neurochemical Funnel)」を提案する。これは、情報の流れではなく、脳内の化学物質の分泌順序に基づいたコミュニケーション設計図である。
| 段階 | 対応する神経伝達物質 | 心理的機能 | 物語的要素(ナラティブ・アーク) |
| Phase 1: 注目 | コルチゾール (Cortisol) | 覚醒、危機感、フォーカス | フック、葛藤、緊張(Tension) |
| Phase 2: 共感 | オキシトシン (Oxytocin) | 信頼、没入、自己投影 | キャラクター、脆弱性、感覚的描写 |
| Phase 3: 報酬 | ドーパミン (Dopamine) | 快感、動機づけ、行動意欲 | 解決、カタルシス、未来の提示 |
このファネルにおいて重要なのは「順序」である。ザックの研究によれば、コルチゾールによる「注意」の喚起がなければ、オキシトシンによる「共感」は生じない1。平坦な物語が失敗したのは、最初の「不快感(ストレス)」を作り出せなかったため、脳がその情報を処理する価値なしと判断し、共感回路を起動させなかったからである。
以下、各フェーズにおける具体的なコンテンツ制作と文章術について詳述する。
第4章:第一段階:コルチゾールによる「注意」の喚起
4.1 認知的緊張と「不協和」の生物学的意義
コルチゾールは一般に「ストレスホルモン」として知られ、ネガティブなイメージが強い。しかし、情報の伝達において、適度なコルチゾールは不可欠な「覚醒剤」である。人間の脳は、エネルギーを節約するために、予測可能な情報や平和な状態を「無視」するように設計されている。脳がリソースを割いて注意を向けるのは、「変化」、「脅威」、あるいは「未知の状況」だけである10。
したがって、読者や視聴者の注意を引くためには、意図的に「認知的緊張(Cognitive Tension)」を作り出し、コルチゾールを微量に分泌させる必要がある。
4.2 実践的手法:ザイガルニック効果と「オープン・ループ」
心理学者ブルーマ・ザイガルニックが発見した「ザイガルニック効果」は、人間は完了したタスクよりも、未完了のタスクや中断された課題の方を強く記憶するという現象である。これは、未解決の状態が脳に軽い緊張(ストレス)を与え続け、解決されるまで認知リソースを占有し続けるためである12。
文章術において、これを応用したのが「オープン・ループ(Open Loop)」という技術である。
- 定義:話の結末や核心をすぐには明かさず、謎や問いを提示したまま話を展開させる手法。
- 効果:脳は情報の欠落(Gap)を不快に感じ、その隙間を埋めようとする欲求(Information Gap Theory)が生じる13。この「知りたい」という渇望は、神経化学的にはストレス反応の一種であり、読者を文章に繋ぎ止める拘束力となる。
- 具体例:
- 悪い例:「オキシトシンは信頼のホルモンです。これからその理由を説明します。」(ループが閉じており、緊張がない)
- 良い例:「なぜ、ある詐欺師は一言も話さずに被害者から全財産を奪うことができたのか? その秘密は、あなたの脳内にある『ある物質』の暴走にありました。」(謎が提示され、答えを知るまで離脱できない)
4.3 葛藤とフライターグのピラミッド
物語論における「フライターグのピラミッド(Freytag’s Pyramid)」の「上昇アクション(Rising Action)」は、まさにコルチゾール濃度の上昇曲線と一致する14。
- ヴィラン(敵役)の設定:ヒーロー(顧客や読者)の前に立ちはだかる障害、敵、あるいは解決すべき問題を明確にする。マーケティングにおいては、「解決策(商品)」を提示する前に、「問題(痛み)」を十分に描写し、読者のストレスレベルを意図的に上げることが重要である15。
- アジテーション(煽り):問題がいかに深刻で、放置するとどのような損失があるかを強調する。これにより、脳は「これは自分に関係のある緊急事態だ」と認識し、コルチゾールを分泌させて集中モードに入る16。
第5章:第二段階:オキシトシンによる「共感」と「没入」
コルチゾールによって注意を引きつけた後、次に行うべきは、その注意を「警戒」から「信頼」へと変換することである。ストレス状態が長く続くと、読者は「闘争・逃走反応(Fight or Flight)」を起こし、ページを閉じてしまう(逃走)。ここでオキシトシンの出番となる。
5.1 ナラティブ・トランスポーテーション(物語への没入)
ザックの研究における「ナラティブ・トランスポーテーション(Narrative Transportation)」とは、読者が物理的な現実を離れ、物語の世界に没入している状態を指す。この状態において、脳は物語のキャラクターと自分を重ね合わせ(Neural Coupling)、彼らの感情を自分のものとして体験する。このシミュレーション機能こそが共感の正体であり、オキシトシンが媒介するプロセスである1。
5.2 脆弱性の開示と信頼シグナル
オキシトシンは、他者が自分にとって「安全である」と認識されたときに分泌される。では、見知らぬ書き手が読者に対して安全であることを示す最強のシグナルは何か? それは「脆弱性(Vulnerability)」の開示である。
- 弱さを見せる:完璧な人間や企業は、信頼されにくい。むしろ、過去の失敗、弱点、苦悩を率直に語ることで、相手の警戒心(扁桃体の活動)を抑制し、オキシトシンの分泌を促すことができる18。
- 実践例:「我々の製品は世界一です」と言うよりも、「創業当初、我々の製品は欠陥だらけで、すべてのお客様を失いかけました。その絶望の中で、ある一通のメールが我々を変えたのです」と語る方が、聴衆のオキシトシンレベルを高め、結果として深い信頼を勝ち取ることができる。
5.3 感覚的言語とミラーニューロンの活性化
「Ben’s Story」が効果的だった理由は、それが抽象的な「癌の統計データ」ではなく、父親の表情や息子の遊ぶ姿といった具体的な描写に満ちていたからである。
- 感覚的言語(Sensory Language):視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚に訴える言葉は、脳の感覚野を直接刺激する。「困難な状況」と書くよりも、「泥沼に足を取られ、冷たい雨が頬を打つような状況」と書く方が、脳はリアルな体験として処理し、感情移入(オキシトシン分泌)を引き起こしやすい20。
- キャラクターへの焦点化:オキシトシンは「個体」に対して分泌される。「貧困層」という集団には共感しにくくても、「今日食べるパンがない7歳の少女」には強く反応する(Identifiable Victim Effect)。論理的な説得の前に、必ず具体的な「誰か」の物語を置く必要がある。
第6章:第三段階:ドーパミンによる「報酬予測」と「行動」
共感が形成され、脳が「協力モード」になった段階で、最後に必要となるのが行動への「トリガー」である。ここで主役となるのがドーパミン(Dopamine)である。ドーパミンは快楽物質と誤解されがちだが、正確には「報酬予測(Reward Prediction)」と「動機づけ(Motivation)」のホルモンである22。
6.1 報酬予測誤差と解決への渇望
物語のクライマックスで葛藤が解決されると、脳は緊張からの解放を「報酬」として受け取り、ドーパミンを放出する。この快感を、提示された商品やアクション(寄付や購入)と結びつけることがマーケティングの核心である14。
- 解決の提示:第1段階で提示した「オープン・ループ(謎や問題)」を閉じることが、ドーパミン放出のスイッチとなる。「この製品を使えば、あの問題が解決する」という提示が、脳に快感の予感(Reward Anticipation)を与える。
6.2 フューチャー・ペーシング(未来的同期)の技術
読者に行動を起こさせる強力な技術として、NLP(神経言語プログラミング)由来の「フューチャー・ペーシング(Future Pacing)」がある。
- メカニズム:読者に、商品やサービスを使用した後の「理想の未来」を具体的に想像させる。「想像してください。明日の朝、目覚めたときにあの背中の痛みが完全に消えていたら…」というように、未来の成功体験を脳内でシミュレーションさせることで、ドーパミンを先取りして分泌させる22。
- 行動へのドライブ:脳は、シミュレーションされた報酬(快感)を現実のものにしようと、身体に行動を命令する。これが「ポチる(購入ボタンを押す)」瞬間の神経学的メカニズムである。
6.3 斬新さと「期待」
ドーパミンは「新奇性(Novelty)」によっても強く刺激される26。ありきたりな解決策ではなく、「新しい発見」、「隠された真実」、「画期的なメソッド」といった言葉(Power Words)は、脳の報酬系を刺激し、期待感を高める。
第7章:ケーススタディ分析:20億ドルのセールスレター
神経化学的ファネルの実効性を証明する歴史的な事例として、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙が28年間にわたって使用し、約20億ドル(約2,000億円以上)の売上をもたらした伝説的なセールスレター「Two Young Men(二人の若者)」を分析する28。このレターは、ザックの理論が見事に実装されている。
7.1 コルチゾール・フェーズ:比較と羨望
「美しい春の午後、25年前に二人の若者が同じ大学を卒業しました。彼らはとても似ていました…(中略)…しかし、違いがありました。一人は小さな部署の管理職でした。もう一人は社長でした。」
この冒頭は、読者に強烈な「社会的比較(Social Comparison)」を強いる。自分と同じような条件の人間が、自分より成功しているという事実は、脳に「地位の脅威」というストレス(コルチゾール)を与える。「なぜ差がついたのか?」というオープン・ループが形成され、読者は先を読まずにはいられなくなる30。
7.2 オキシトシン・フェーズ:共感と同調
「何がその違いを生んだのか、疑問に思ったことはありませんか?(中略)それは生まれつきの知性や才能、懸命な努力の違いではありません。」
ここで書き手は、「あなたにも起こりうることだ」と語りかけ、読者の不安に寄り添う。成功の差は「才能の差ではない」と否定することで、読者を守り、敵対関係ではなく味方であることを示す(信頼形成)。
7.3 ドーパミン・フェーズ:知識という報酬
「その違いは、彼らが何を知っていたか、そしてその知識をどう使ったかにありました。それこそが、私があなたにウォール・ストリート・ジャーナルについて書いている理由です。」
ここで緊張が解決される。「知識(=WSJを読むこと)」さえあれば、社長になれるという「報酬」が提示される。この解決策はドーパミンの放出を促し、購読申し込みという行動へと直結する構造になっている31。
第8章:科学的妥当性と倫理的考察
本報告書はザックの研究を基盤としているが、科学的な公平性を期すために、その限界と倫理的側面についても触れなければならない。
8.1 再現性の危機と測定の課題
心理学・神経科学分野における「再現性の危機」は、オキシトシン研究にも影を落としている。特に、オキシトシンを点鼻スプレーで投与して信頼が増すかを確認する実験(外因性投与)については、再現性にばらつきがあり、否定的なメタ分析結果も存在する3。
しかし、ザックらの反論や追加研究によれば、「物語を見せて内因性のオキシトシン分泌を促す」実験(Ben’s Storyなど)に関しては、行動予測の相関は比較的堅牢であるとされる1。重要なのは、オキシトシン単体の効果というよりも、「注意(Cortisol)→没入(Oxytocin)→行動」という一連のプロセスが、行動経済学的に再現性のあるモデルであるという点である。
8.2 外因性投与 vs 内因性分泌の差異
「Liquid Trust」のようなオキシトシン入り香水が効果を持たないのは、オキシトシンが文脈依存的だからである。信頼できない状況や敵対的な環境でオキシトシンが増えると、かえって防衛的・排他的になることもある2。物語によるアプローチが優れているのは、物語の文脈(コンテキスト)自体が、脳に「今は信頼すべき状況だ」と教えるガイド役を果たすためである。
8.3 神経マーケティングの倫理
読者の脳内ホルモンを意図的に操作するというアプローチは、倫理的な問いを投げかける。ザック自身、詐欺師が(無意識的にせよ)このメカニズムを悪用して被害者のオキシトシンを搾取している可能性を指摘している。マーケターやライターは、この強力な「共感の技術」を、真に価値ある解決策を届けるためにのみ使用する道徳的責任がある5。
結論:バイオケミカル・ドリブンなコミュニケーションへ
「伝わる」とは、単に情報が移動することではない。それは、受け手の脳内で特定の神経伝達物質が分泌され、生理的な状態変化が起こることを意味する。
ポール・ザックの研究が示す「オキシトシンと共感の生化学」は、我々に新しいコミュニケーションの指針を与えてくれる。論理で説得する前に、まず物語でコルチゾールを刺激して振り向かせ、オキシトシンで心を開かせ、ドーパミンで背中を押す。この「神経化学的ファネル」を意識的にデザインすることで、文章は単なる記号の羅列を超え、人の心と行動を動かす生化学的なインターフェースへと進化するのである。
実践的チェックリスト(要約)
コラム読者への具体的なアクションアイテムとして、以下のチェックリストを推奨する。
- Cortisol Check: 冒頭で読者の「痛み」や「未解決の謎」を提示し、適度なストレスを与えているか?(平和すぎる導入はNG)
- Oxytocin Check: データだけでなく、「誰か」の物語を語っているか? 自社の弱みや失敗談(脆弱性)を開示して信頼を得ているか?
- Dopamine Check: 読後に得られる「理想の未来」を鮮明に描写しているか? 解決策(CTA)は明確か?
引用文献
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- A study fails to replicate, but it continues to get referenced as if it had no problems. Communication channels are blocked. | Statistical Modeling, Causal Inference, and Social Science, https://statmodeling.stat.columbia.edu/2018/10/24/study-fails-replicate-continues-get-referenced-no-problems-communication-channels-blocked/
- THE NEUROSCIENCE OF HIGH-TRUST ORGANIZATIONS – Center for Neuroeconomics Studies, https://neuroeconomicstudies.org/wp-content/uploads/2017/07/The_Neuroscience_of_High_Trust_Organizations_CPJ_2018.pdf
- The Moral Molecule PDF – Bookey, https://cdn.bookey.app/files/pdf/book/en/the-moral-molecule.pdf
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- The world’s greatest sales letter (that wasn’t)… – Breakthrough Marketing Secrets, https://www.breakthroughmarketingsecrets.com/blog/the-worlds-greatest-sales-letter-that-wasnt/
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- The Five Sales Letters Every Marketer Should Know, Hands Down – Crazy Egg, https://www.crazyegg.com/blog/sales-letters-every-marketer-know/