「阿吽の呼吸」への依存が、実はチームの知性を枯渇させているとしたら?最新の脳科学と生理学的解析(HMMs)は、神経多様なチームにおいて「同期」は自然発生せず、多くのメンバーが過剰適応(マスキング)に膨大な認知リソースを浪費している事実を突きつけました[]。本稿では、「伝わらない」原因を個人のスキルではなく「環境の設計ミス」として捉え直します。Amazon式サイレント会議や信号機システムなど、科学的根拠に基づいて脳の負荷を最小化し、組織のポテンシャルを解放するための「会議設計マニュアル」を提案します。
序章:コミュニケーションの「伝達」から「共鳴」へのパラダイムシフト
現代の組織開発とチームマネジメントの領域において、コミュニケーションの質は長らく「スキル」の問題として扱われてきた。話し方、聞き方、ファシリテーション技術――これらは個人の能力に依存する変数と見なされ、トレーニングによって向上可能なものとされてきた。しかし、ブログ「伝わるを科学する」が提唱する視座に立てば、このアプローチは根本的な欠陥を抱えていると言わざるを得ない。我々はコミュニケーションを、情報の「伝達(Transmission)」という物理的移動として捉えるのではなく、受信者の認知システム内における「意味の形成(Resonance)」という神経科学的現象として再定義する必要がある 1。
特に、神経多様性(ニューロダイバーシティ)の概念が浸透しつつある現代において、従来の画一的なコミュニケーション環境は、特定の神経学的特性を持つ個人――自閉スペクトラム症(ASD)、ADHD、学習障害などを持つニューロダイバージェント(神経多様者)――に対して、著しく不利かつ過酷な負荷を強いている現実がある。彼らは、定型発達者(Neurotypical: NT)によって設計された社会規範や暗黙の了解に適応するために、自身の自然な振る舞いを抑制し、人為的に「普通」を演じる「マスキング(Masking)」という認知処理を常時強いられている 2。
本レポートは、最新の生理学的研究、特に心拍変動(HRV)を用いた隠れマルコフモデル(HMMs)による協調ダイナミクスの解析や、予測符号化理論(Predictive Coding)に基づく脳の不確実性処理のメカニズムを紐解きながら、なぜ既存の会議設計が機能不全に陥るのかを科学的に解明する。そして、個人の努力や精神論に頼るのではなく、環境とプロセスのエンジニアリングによって「マスキング疲れ」を構造的に回避し、組織全体の認知リソースを最大化するための「会議設計マニュアル」を提示するものである。これは、単なるマイノリティへの配慮(Accommodation)ではない。組織内の「伝わらなさ」というノイズを除去し、合意形成の精度と速度を飛躍的に高めるための、科学的根拠に基づいたコミュニケーション・エンジニアリングの提案である。
第1章:コラボレーションの生理学——「阿吽の呼吸」の崩壊と再構築
組織論において、高度に機能するチームの理想像として語られる「阿吽の呼吸」や「場の空気」は、科学的なメスを入れるならば、特定の神経学的基盤を共有する同質集団内でのみ成立する「暗黙の生理的同期現象」に過ぎない。神経多様なチームにおいて、この同期がどのように阻害され、どのような生理的コストを支払っているのかを理解することは、会議設計の第一歩である。
1.1 対人生理学的シンクロニー(IPS)のメカニズムと限界
人間が対面で相互作用を行う際、無意識のうちに相手の動作、発話のリズム、そして心拍や皮膚コンダクタンス(発汗)といった自律神経系の反応を同期させる現象が確認されている。これを「対人生理学的シンクロニー(Interpersonal Physiological Synchrony: IPS)」と呼ぶ 4。IPSは、ラポール(信頼関係)の形成、共感、そして社会的提携を促進する生物学的な「接着剤」として機能しており、高いIPSを示すペアほど、協力タスクのパフォーマンスが高く、相互の好意度も高い傾向にある 4。
しかし、このメカニズムは万能ではない。最新の研究において、ASD特性を持つ個人と定型発達者のペア(混合ダイアド)では、定型発達者同士のペアと比較して、このIPSが著しく減衰するか、あるいは同期に至るまでのプロセスが極めて複雑であることが示されている 4。
同期の神経基盤における差異
定型発達者にとって、他者との同期は報酬系(特に腹側線条体)を活性化させる「快」の体験であり、自動化されたプロセスである 10。一方、ASD特性を持つ個人においては、模倣や同期行動に対する報酬系の反応が低く、むしろ社会的な不確実性に対する警戒心や、感覚入力の過剰な処理による負荷が先行する場合がある。
研究によれば、ASD者は定型発達者と同じ強度の感情表現を行っていても、顔の表情と声のトーン、あるいはジェスチャーといった複数のモダリティ間での協調(Cross-modal coordination)が低い傾向にある 11。これは、受信側である定型発達者にとって「信号の不一致」として知覚され、無意識の違和感や「伝わらない」感覚を引き起こす原因となる。
1.2 隠れマルコフモデル(HMMs)が暴く「協調の断絶」
従来の相関分析では捉えきれなかった、協力作業中の微細な「状態遷移」を可視化するために、心拍変動(HRV)データに隠れマルコフモデル(HMMs)を適用した画期的な研究が行われている 8。HMMsは、観測可能なデータ(ここでは心拍間隔など)から、その背後にある観測不可能な「隠れた状態(Hidden States)」(例:集中、緊張、リラックス、共鳴など)の推移を確率的にモデル化する手法である。
状態遷移パターンの決定的な違い
ある研究では、遠隔での協力プログラミングタスクを行うペアの生理データをHMMsで解析し、定型発達者同士のペア(NA-NA)と、ASD者を含むペア(ASD-NA)のダイナミクスを比較した。その結果、以下の決定的な差異が明らかになった 9。
| 分析指標 | 定型発達ペア (NA-NA) | 混合ペア (ASD-NA) | コミュニケーション・エンジニアリング的解釈 |
| 状態遷移頻度 | 高頻度で滑らか | 低頻度で膠着 | NA-NAペアは、緊張と緩和、思考と発話といった生理的状態を軽やかに行き来し、役割交代が流動的である。一方、ASD-NAペアは特定の生理的状態に長く留まる傾向があり、状態の切り替えに大きなエネルギー障壁が存在することを示唆している。 |
| 状態の多様性 | 複数の状態を網羅的に遷移 | 特定の状態に限定される傾向 | 混合ペアでは、お互いのリズムを探り合う「調整コスト」が高く、結果として柔軟な相互作用パターンが制限され、特定の(おそらくは高負荷な)状態にロックされやすい。 |
| 同期へのプロセス | 自然発生的・直感的 | 意識的・構成的 | 混合ペアにおける同期は「自動的」には発生せず、認知的な努力による「手動調整」の結果として辛うじて成立するか、あるいは成立しないままタスクが進行する。 |
このデータが示唆する事実は重い。会議において「自然な会話の流れ」や「阿吽の呼吸」に依存することは、神経多様者にとって、エンジンオイルなしでギアチェンジを繰り返すような過酷な生理的負担を強いていることを意味する。定型発達者が無意識のオートマチック車で走行している隣で、神経多様者は複雑なマニュアル操作とクラッチ調整を常時行っているのである。
1.3 予測符号化理論と「不確実性」の苦痛
なぜ、神経多様者(特にASD)にとって、他者との同期や会議の不確実性はこれほどの負荷となるのか。これを説明する有力な理論的枠組みが「予測符号化(Predictive Coding)」である 13。
この理論によれば、人間の脳は受動的な受信機ではなく、能動的な「予測マシン」である。脳は常に外界の状態に関する予測モデル(事前分布)を生成し、実際の感覚入力との差分(予測誤差)を最小化しようとする。
定型発達者の脳は、文脈に応じて予測の「精度(Precision)」を柔軟に調整することができる。例えば、会議中に多少の予期せぬ雑音や脱線があっても、それを「無視すべきノイズ」として処理し、予測モデルの大枠を維持することができる。
一方、ASD者の脳は「Precise Minds(高精度な心)」仮説 13 で説明されるように、予測誤差に対して過剰に敏感であるか、あるいは環境の変動性(ボラティリティ)に対する予測モデルの更新率(学習率)が硬直的であるとされる 14。
彼らにとって、予測不可能な事象(突然の指名、アジェンダにない議論、曖昧な指示)は、単なる驚きではなく、システム全体のアラートを鳴らす強烈な「認知的不協和」として体験される。この予測誤差を処理するために膨大な神経リソースが動員され、結果として情報の処理そのもの(理解や思考)に使えるリソースが枯渇する。
会議という場が、発言タイミングの不確実性、非言語情報の曖昧性、社会的評価の変動性といった「予測不能性」の塊である以上、神経多様者がそこに「無防備」で参加することは、常に高強度の認知攻撃を受け続けている状態に等しい。次章で詳述する「マスキング」は、この過酷な環境下で生き延びるために彼らが編み出した、しかし極めてコストの高い防衛策なのである。
第2章:マスキングの経済学——「普通」を演じるための認知リソースの枯渇
「伝わる」を科学する上で避けて通れないのが、受信者側の「受信帯域」の問題である。どれほど送信側(発言者)が論理的かつ明晰に情報を伝えたとしても、受信側(神経多様者)の認知リソースが「マスキング」というバックグラウンド処理によって占有されていれば、意味の形成は起こらない。ここでは、マスキングが消費するコストを定量的な視点から評価する。
2.1 マスキング(Camouflaging)の定義とその構造
マスキングとは、神経多様者が定型発達社会に適応するために、自身の自閉的特性を隠し、社会的に望ましいとされる振る舞いを演じる一連の戦略を指す 2。これは単なる「行儀よくする」こととは異なり、高度に意識的かつ戦略的な認知プロセスである。研究では、マスキングは主に以下の3つの要素で構成されると分類されている 20。
- 補償(Compensation): 自身の社会的直感の欠如を、知的な計算や学習したスクリプトで補う行為。例:相手のジョークの意味を論理的に解析して笑うタイミングを計る。
- 隠蔽(Masking/Hiding): スティミング(体を揺らす、手を叩くなどの自己刺激行動)や、感覚過敏による不快反応を物理的に抑制する行為 3。
- 同化(Assimilation): 定型発達者の振る舞いを演じ、集団に溶け込もうとする行為。例:苦痛であってもアイコンタクトを強制的に維持する 22。
2.2 二重課題(Dual-Task)としての社会的相互作用
心理学における「二重課題(Dual-Task)」パラダイムは、マスキングのコストを理解する上で極めて有用なモデルを提供する 20。人間の注意資源(ワーキングメモリ)は有限であり、同時に二つの高負荷タスクを実行すると、双方のパフォーマンスが低下する(二重課題干渉)。
定型発達者にとって、会話中の視線制御や相槌、感情の読み取りは「システム1(自動的・直感的処理)」で行われるため、認知コストは低い。しかし、神経多様者にとって、これらはすべて「システム2(意識的・論理的処理)」を要するタスクである 3。
会議中、彼らは以下のようなマルチタスクを強いられている。
- タスクA(メイン): 議論の内容を理解し、論理を構築し、発言内容を考える。
- タスクB(マスキング): 姿勢を正す、視線をカメラに向ける、不自然な動きを止める、適切な表情を作る、相手の言葉の裏を読む。
研究によれば、このような二重課題状況下では、反応時間(Reaction Time)の遅延や、情報の保持能力(記憶)の低下が顕著に現れる 20。マスキングにリソースを割けば割くほど、会議の本質的な目的である「知的生産」に使えるリソースは物理的に減少する。ブログ「伝わるを科学する」の言葉を借りれば、これは**「通信帯域の半分を、通信そのものの維持(暗号化・復号化)に費やし、実質のデータ転送量が激減している状態」**である。
2.3 生理的コストの定量化:コルチゾールとアロスタティック負荷
マスキングの代償は、「疲れ」という主観的な感覚に留まらない。生化学的なマーカーとしても明確に現れる。
- コルチゾールの異常分泌: 社会的カモフラージュを頻繁に行うASD者は、慢性的なストレス状態にあるのと同様の高いコルチゾールレベルを示すことが報告されている 26。コルチゾールは短期的な闘争・逃走反応には有用だが、長期的な高値は海馬(記憶の中枢)の萎縮や免疫機能の低下を招く。
- アロスタティック負荷(Allostatic Load): 環境に適応するために身体が支払い続ける生理的コストの蓄積を指す。過剰なマスキングは、このアロスタティック負荷を高め、心血管系疾患や精神疾患のリスクファクターとなる 28。
2.4 自閉的燃え尽き(Autistic Burnout)への道
マスキングによる慢性的なリソース枯渇の行き着く先が、「自閉的燃え尽き(Autistic Burnout)」である 2。これは、一般的な職業性バーンアウトとは異なり、**「全エネルギーの枯渇により、これまで出来ていた適応スキル(発話、生活維持、感情制御)が一時的または永続的に失われる状態」**と定義される。
燃え尽き状態にある個人は、感覚過敏が増悪し、もはやマスキングを維持することが不可能になる。組織にとって、優秀な人材が突然「機能停止」に陥るこの現象は、重大な損失である。
重要なのは、多くの神経多様者が「マスキングをしたい」わけではないが、「せざるを得ない」と感じている点である 2。それは差別、偏見、雇用の喪失への恐怖に基づく生存戦略である。したがって、組織が「伝わる」環境を設計するためには、「個人の努力で合わせる」のではなく、「環境側がノイズを減らし、マスキングの必要性を除去する」アプローチが不可欠となる。
第3章:ニューロインクルーシブ会議設計マニュアル(環境工学編)
「伝わる」ための土台となるのは、物理的および仮想的な「環境」のデザインである。神経多様者の多くが抱える感覚処理の感受性(Sensory Processing Sensitivity)を考慮し、脳への入力ノイズを極小化する「引き算のデザイン」を会議環境に適用する。
3.1 感覚プロファイルの最適化:ノイズキャンセリング・スペース
神経多様者にとって、環境からの感覚入力は、情報の「背景」ではなく「前景」として知覚されることが多い 30。
視覚的ノイズの低減(Visual Subtraction)
- 照明設計: 蛍光灯の微細なフリッカー(ちらつき)は、定型発達者には不可視でも、一部のASDやADHD者にはストロボライトのように知覚され、偏頭痛や激しい疲労を引き起こす 33。会議室には自然光に近い照明、または調光可能なLEDを導入し、フリッカーフリーの環境を整備することは必須要件である。
- 情報の選別: オンライン会議において、動くバーチャル背景や、散らかった実背景は視覚的な処理負荷を高める。組織として「背景ぼかし」や「シンプルな単色背景」を標準プロトコルとして推奨する 34。資料においても、装飾的な画像やアニメーションを排除し、コントラスト比の高いクリアなフォント(サンセリフ体など)を使用する「ユニバーサルデザイン」を徹底する。
聴覚的ノイズの制御(Auditory Control)
- 静寂の確保: 「カクテルパーティー効果(雑音の中から特定の音声を聞き分ける能力)」が働きにくい神経多様者にとって、周囲の会話や空調音は、主音声と同レベルの音量で脳に入力される 32。吸音材の使用や、「静かなスペース(Quiet Spaces)」の確保は贅沢ではなく、機能要件である 33。
- イヤーマフ・耳栓の社会的承認: 会議中にノイズキャンセリングヘッドフォンや耳栓を使用することを、「話を聞いていない」サインではなく、「聴覚情報を制御し、集中しようとしている」ポジティブな行動として組織的に承認し、明文化する 33。
3.2 「カメラオフ」の科学的妥当性と推奨ポリシー
パンデミック以降のオンライン会議において、「カメラオン」の強制は、神経多様者に対する最大の「マスキング強制装置」として機能してきた。これに対する科学的な反論と、代替ポリシーを提案する。
視線と自己モニタリングの呪縛
カメラオンの状態では、参加者は以下の三重苦に晒される 22。
- 自己像の常時監視: 画面に映る自分の顔を常に見続けることで、自己モニタリング(姿勢、表情のチェック)のループが止まらなくなり、認知リソースが枯渇する。
- 視線圧の過多: 複数の参加者の顔が正面からこちらを見つめている構図(グリッドビュー)は、生物学的な「威嚇」や「監視」に近い圧力を脳に与え、闘争・逃走反応(交感神経の活性化)を引き起こす。
- 非言語情報の洪水: 画質やライティングの悪い映像から微細な表情を読み取ろうとする努力は、脳の視覚野と社会脳ネットワークに過剰な負荷をかける。
推奨ポリシー:「音声ファースト」
MicrosoftやSAP、EYなどの先進的なニューロダイバーシティ採用企業では、カメラオフを「許容」するのではなく、**「正当かつ生産的な参加スタイル」**として定義している 36。
特に、「聴覚優位」の特性を持つ参加者や、視覚情報過多によりフリーズしやすい参加者にとって、カメラオフは「サボり」ではなく、入力チャネルを音声のみに絞ることで処理能力を確保する(=伝わる状態を作る)ための合理的な戦略である。
運用ルール:
- デフォルト・カメラオフ: 会議開始時はカメラオフを基本とし、必要に応じてオンにする(逆の設定)。
- アバターの活用: 顔出しの代わりに、静止画アイコンやアバターの使用を推奨し、存在感を示しつつ視覚的ノイズを減らす 36。
第4章:ニューロインクルーシブ会議設計マニュアル(プロセス工学編)
環境の次は、情報の「流れ(フロー)」の設計である。予測符号化理論に基づき、不確実性を排除し、同期コストを下げるためのプロトコル(手順)を定義する。
4.1 予測の足場かけ(Scaffolding):アジェンダという「認知的義足」
ASD者の脳が「不確実性」に対して脆弱である(予測誤差の処理コストが高い)ことは前述した通りである 13。したがって、会議における「サプライズ」を徹底的に排除することが、彼らのパフォーマンスを最大化する鍵となる。
明示的なアジェンダと事前配布
アジェンダは単なる「議題リスト」ではない。それは会議という不確実な時間の流れに対する「予測モデル」そのものである 33。
- 48時間ルール: 会議資料と詳細なアジェンダは、可能な限り48時間前(最低でも24時間前)に配布する。これにより、処理速度(Processing Speed)に個人差がある参加者も、自分のペースで情報を読み込み、意見を脳内でシミュレーション(リハーサル)する時間を確保できる 34。
- 構造化された問い: 「何か意見はありますか?」というオープンクエスチョンは、文脈依存性が高く、神経多様者をフリーズさせる(「どのレベルの意見か?」「誰に向けてか?」「批判的でもいいのか?」というパラメータ計算が爆発するため)。「このA案のリスクについて、技術的な観点から懸念点はありますか?」といった、制約条件と観点を明確にした構造化された問いかけを設計する。
4.2 Amazon式「サイレント・ミーティング」の神経科学的効用
Amazonが導入し、多くのテック企業に広まっている「サイレント・ミーティング(沈黙の会議)」は、ニューロインクルーシブな会議設計の最良の実践例(ベストプラクティス)の一つである 41。
メカニズムと効用
- プロトコル: 会議の冒頭15〜30分間、参加者は一言も発さず、配布された6ページ程度のナラティブ(叙述形式)の資料を黙読する。その場でコメントを書き込み、全員が読み終わった後に初めて質疑応答に入る。
- 処理速度の平準化: 聴覚情報の処理が苦手な人(Auditory Processing Disorderなど)や、読むスピードが異なる人が、他者のペースに乱されることなく、自分の認知リズムで情報を摂取できる。
- 同期コストの削減: HMMsの知見に基づけば、会議中の「いつ発言しようか」「今、割り込んでもいいか」というタイミング計測(状態遷移の調整)には膨大な生理的コストがかかる。サイレント・ミーティングは、この「同期のための調整コスト」をゼロにし、純粋な「思考と理解」に全リソースを集中させる時間を強制的に作り出す。
- 公平性の担保: 「声の大きい人」「反応が速い人(外向型・定型発達者)」が議論を支配するバイアスを排除し、内向的だが深い洞察を持つ参加者の意見(=テキスト)をテーブルに乗せることができる。
4.3 ターンテイキングの可視化:「信号機(Traffic Light)」システム
発言のタイミング(割り込みや譲り合い)は、高度な非言語的同期スキルを要する、混合チームにおける最大の難所である。これを「信号機」システムで明示的な記号(Sign)に変換する 44。
運用プロトコル
リアル会議では手元のカラーカード、オンライン会議ではZoomのリアクション機能や背景色、チャットの冒頭記号を使用する。
| 色 / 記号 | 意味とアクション | 神経科学的メリット |
| 🔴 赤 (Red) | 「今は話せません / 処理中です / 休憩が必要」 | マスキング解除の表明。処理オーバーフロー時に「フリーズ」するのではなく、システム的に「待機」状態であることを安全に宣言できる。 |
| 🟡 黄 (Amber) | 「質問があります / 言いたいことがあります(準備中)」 | 挙手という身体動作の曖昧さを排除。「発言予約」を可視化することで、いつ指名されるかという不確実性を低減する。 |
| 🟢 緑 (Green) | 「発言可能です / 同意します / 準備完了」 | 積極的な参加意思の表明。ファシリテーターにとって、誰に話を振ればよいかが明確になる。 |
このシステムにより、曖昧な「空気」を読む必要がなくなり、発言権の移動が明確なルール(アルゴリズム)に基づいて行われるようになる。これは予測符号化の観点からも、予測誤差を最小化する優れたインターフェースである。
第5章:心理的安全性と組織文化のOSアップデート
どれほど優れた環境とマニュアル(アプリケーション)を導入しても、それを動かすOS(組織文化)が旧来のままであれば機能しない。マニュアルの実装には、それを支える「心理的安全性」の再定義が必要である。
5.1 心理的安全性とニューロダイバーシティの統合
ハーバード大学のエイミー・エドモンドソンが提唱した「心理的安全性」は、ニューロダイバーシティの文脈では**「自分の脳の特性(強みだけでなく、感覚過敏や処理の苦手さといった弱点)を開示しても、不利益を被らないという確信」**と再定義されるべきである 37。
「マスキング疲れ」を回避するためには、「今日はカメラをオフにします」「この部屋の光が眩しいです」「少し考える時間が欲しいです」と表明できる空気が必須である。
脆弱性のモデリング(Vulnerability Modeling)
リーダー自身が「自分は長文のメールを読むのが苦手だ」「午後は集中力が落ちる」といった、自身の認知特性(マイノリティ性でなくともよい)を開示することで、「特性について語ること」の心理的ハードルを下げる。これが、チーム全体における「自己開示の連鎖」を生み出すトリガーとなる 47。
5.2 SAP・Microsoft・EYの事例に学ぶ「強み」への転換
SAP、Microsoft、EYといったグローバル企業が展開する「Autism at Work」プログラムは、単なるCSR(企業の社会的責任)活動ではない。彼らは、神経多様者の持つ「パターン認識能力」「細部への注意力」「論理的思考力」「並外れた集中力」といった強みを活用することが、企業のイノベーションと競争力に直結することを知っている 38。
メンターとバディ制度の実装
SAPでは、業務上の指示系統にある上司とは別に、社会的なルールや会社の不文律、個人的な困りごとについて相談できる「メンター」や「バディ」を配置している 38。
会議において、発言の意図がわからなかったり、不適切な発言をしてしまったのではないかと不安になったりした場合、当事者は後でメンターに確認することができる。この「セーフティネット」の存在は、会議中の不安(予測誤差)を劇的に軽減し、パフォーマンスの向上に寄与する。
採用と評価プロセスの変革
Microsoftは、従来の「面接(社会的スキルのテスト)」を廃止し、数日間にわたる「ワークショップ(実務スキルのテスト)」による採用プロセスを導入した 39。これは、「会議で即興的にうまく話せる能力」と「実際の職務遂行能力」との間に相関がないことを彼らが理解しているからである。会議での発言回数や流暢さではなく、成果物の質や、テキストベースでの貢献を正当に評価する人事評価制度への転換が求められる。
結論:「伝わる」の再定義——適応から最適化へ
本レポートを通じて論じてきたことは、一貫して「コミュニケーションの最適化」である。「マスキング疲れ」とは、個人のスタミナ不足や努力不足の問題ではない。それは、多様な脳のOSが存在するにもかかわらず、特定のOS(定型発達)に最適化されたレガシーなアプリケーション(従来の会議形式)を、互換性のないOS上で無理やりエミュレーションさせている「システム設計のエラー」である。
生理学的データ(HMMs、HRV)は、神経多様なチームにおいて「同期」が自然発生しないことを客観的に示した。認知科学的データ(二重課題、コルチゾール)は、マスキングが持続不可能なコストを強いることを証明した。
これらの科学的事実が突きつける結論は以下の3点に集約される。
- 同期の非対称性を前提とする: 生理的な「阿吽の呼吸」に依存せず、明示的なプロトコル(アジェンダ、信号機システム、サイレント会議)という「コグニティブ・プロテーゼ(認知的義足)」を標準装備する。
- 引き算のデザインを徹底する: カメラオフや静寂な環境の許容は、「怠慢の許可」ではなく、脳への入力ノイズを減らし、本来の処理能力を解放するための「帯域確保」である。
- 「伝わる」とは「共鳴」である: 「伝わる」とは、発信者が上手に話すことではなく、受信者の脳内における不確実性とノイズを除去し、信号(意味)がクリアに届き、共鳴する状態を設計することである。
ブログ「伝わるを科学する」が目指すのは、誰もが無理なく、その能力を最大限に発揮できる「コグニティブ・エルゴノミクス(認知人間工学)」に基づいた組織デザインである。このマニュアルが、あなたのチームの会議を、エネルギーを奪い合う「疲労の場」から、知性が共鳴し合う「創造の場」へと変える一助となることを願う。
引用文献
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- Autism at Work: Simple Fixes That Help – Links ABA Therapy, https://linksaba.com/autism-at-work-simple-fixes-that-help/
- The Employers’ Reasonable Accommodation Handbook: Neurodiversity at Work Learner’s Guide Table of Contents – Ohio.gov, https://dam.assets.ohio.gov/image/upload/ood.ohio.gov/Literature/ERAH_Neurodiversity%20at%20Work_Learner’s%20Guide.pdf
- Creating Neuro-Inclusive Meetings – Do-IT Profiler, https://doitprofiler.com/insight/creating-neuro-inclusive-meetings/
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- Talking together at the edge of meaning: – Mutual (mis)understanding between autistic and non-autistic speakers Gemma L. Williams – ResearchGate, https://www.researchgate.net/profile/Gemma-Williams-11/publication/349967250_Talking_together_at_the_edge_of_meaning_Mutual_misunderstanding_between_autistic_and_non-autistic_speakers/links/604a06e745851543166bad44/Talking-together-at-the-edge-of-meaning-Mutual-misunderstanding-between-autistic-and-non-autistic-speakers.pdf