聞き手を科学する

腹側迷走神経複合体と社会的関与システム:安全性と接続性の神経生理学的基盤

コミュニケーションにおいて、「何を言うか(コンテンツ)」よりも「どう聞くか(コンテキスト)」が重要であることは経験的に語られてきました。しかし、最新の神経生理学は、この現象を単なる精神論ではなく、「生体間の代謝エネルギー制御システム」として解明しつつあります。本記事では、ステファン・ポージェス博士が提唱するポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)と、ジェームズ・コーン博士の社会的ベースライン理論に基づき、聞き手の態度がいかにして相手の自律神経系に介入し、真実を語らせるための「生理的許可」を与えているのかを、科学的に深掘りします。

1. 序論:自律神経系理解におけるパラダイムシフト

1.1 伝統的な拮抗モデルからの脱却

長年にわたり、生理学および医学の分野において、自律神経系(ANS)は二元的な拮抗システムとして理解されてきた。すなわち、生体のエネルギーを動員し「闘争・逃走(Fight or Flight)」反応を司る交感神経系(SNS)と、休息や消化などの恒常性機能を促進する副交感神経系(PNS)のバランスによって、生体の状態が決定されるというモデルである。この古典的な視点では、迷走神経は単に副交感神経の主要な経路として、心拍数を低下させ、内臓機能を活性化させる「休息と消化(Rest and Digest)」の役割を一手に担うものと見なされてきた

しかし、この二元論的モデルは、臨床現場や実験室で観察される「迷走神経のパラドックス」を説明することに失敗していた。迷走神経の活性化は、一方では健康、成長、回復を促進する保護的な機能(恒常性の維持)と関連付けられるが、他方では徐脈、無呼吸、そして死に至る可能性のある生命脅威的な反応(神経原性ショックなど)とも関連付けられる 。同じ神経が、なぜ生命を維持すると同時に生命を脅かす反応を引き起こすのか。この矛盾は、従来の解剖学的・生理学的理解の限界を示唆していた。

1.2 ポリヴェーガル理論の登場

1994年、ステファン・ポージェス(Stephen Porges)博士によって提唱されたポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)は、このパラドックスに対する進化論的な解答を提示した。同理論は、自律神経系を単なる二つの拮抗するシステムとしてではなく、脊椎動物の進化過程において段階的に出現した「三つの階層的システム」として再定義した

この理論の中核をなすのが、哺乳類に特有の進化的獲得形質である腹側迷走神経複合体(Ventral Vagal Complex: VVC)の同定である。VVCは、迷走神経の系統発生的に新しい枝であり、心臓のペースメーカーに対する抑制的な制御(迷走神経ブレーキ)と、顔面や頭部の横紋筋の制御を神経解剖学的にリンクさせる。これにより、社会的関与システム(Social Engagement System: SES)と呼ばれる機能的統合体が形成され、生理学的な状態(安全性)と社会的な行動(コミュニケーション)が不可分に結びつくこととなった 。

本報告書では、腹側迷走神経複合体と社会的関与システムのメカニズム、それらが個体の代謝コストや認知機能に与える影響、そして臨床的・社会的な含意について、最新の研究知見に基づき包括的に詳述する。


2. 系統発生的基盤と迷走神経の進化

腹側迷走神経複合体の機能を真に理解するためには、脊椎動物の進化における自律神経系の変遷を辿る必要がある。進化は古いシステムを廃棄するのではなく、それを修正し、新しいシステムを上書きする形で進行した。したがって、ヒトの神経系には、古代の無脊椎動物や爬虫類から受け継いだ防御メカニズムが、地層のように埋め込まれている

2.1 古い迷走神経:背側迷走神経複合体(DVC)

最も原始的な迷走神経系は、軟骨魚類や両生類、爬虫類において主要な自律神経制御を担う背側迷走神経複合体(Dorsal Vagal Complex: DVC)である。このシステムは、脳幹の迷走神経背側運動核(DMNX)を起源とし、無髄(ミエリン鞘を持たない)線維によって構成されている 。

爬虫類において、DVCは主に消化器系の制御と、脅威に対する受動的な防御反応を担当する。酸素消費量が少なく、低代謝状態での生存が可能な爬虫類にとって、捕食者に遭遇した際の最適戦略は「死んだふり」や「不動化(Immobilization)」である。DVCが強く活性化すると、急激な心拍数の低下(徐脈)と代謝の抑制が引き起こされ、個体は環境から遮断されたシャットダウン状態に入る

しかし、酸素需要の高い哺乳類にとって、この原始的な防御反応は諸刃の剣となる。DVCによる強力な徐脈は、脳への酸素供給を断ち、低酸素症や徐脈性不整脈を引き起こし、最悪の場合は死に至るリスクがある 。これが、前述した「迷走神経のパラドックス」の正体であり、DVCは「生命を脅かす迷走神経」としての側面を持つ。

2.2 交感神経系(SNS)の出現

脊椎動物がより活動的になり、捕食者から逃走したり、獲物を捕獲したりする必要性が増すと、脊髄交感神経系(SNS)が発達した。これは代謝出力を急速に高め、心拍数を上げ、筋肉への血流を増加させる「動員(Mobilization)」システムである。SNSの活性化は、DVCによる不動化反応を抑制し、闘争・逃走反応を可能にした

2.3 新しい迷走神経:腹側迷走神経複合体(VVC)の誕生

哺乳類への進化に伴い、横隔膜より上の臓器(心臓、肺)と、首から上の筋肉群(顔面、咽頭、喉頭)との協調が必要となった。特に、高い代謝率を維持しつつ、授乳や発声といった複雑な社会的行動を行うためには、DVCのような「全か無か」のシャットダウン機構ではなく、より精緻で迅速な心拍制御システムが必要であった。

進化の過程で、心臓を制御する迷走神経ニューロンの一部が、背側運動核から腹側の疑核(Nucleus Ambiguus: NA)へと移動した 。この解剖学的な移動(ventral migration)により形成されたのが、腹側迷走神経複合体(VVC)である。VVCの特徴は以下の通りである:

  • 有髄化(Myelination): VVCの線維はミエリン鞘で覆われており、無髄のDVCに比べて電気信号の伝達速度が格段に速い。これにより、呼吸のサイクルや環境の変化に合わせて、ミリ秒単位での心拍制御が可能となる 。
  • 迷走神経ブレーキ(Vagal Brake): VVCは心臓のペースメーカー(洞房結節)に対して持続的な抑制作用を及ぼし、安静時の心拍数を固有心拍数よりも低く保つ。活動が必要な際、哺乳類は交感神経を激しく活性化させることなく、単にこの「ブレーキ」を緩めるだけで心拍数を上げることができる。これにより、代謝コストを抑えた冷静な覚醒状態が可能となる 。

3. 腹側迷走神経複合体と社会的関与システム(SES)の解剖学

ポリヴェーガル理論の最も革新的な点は、心臓の制御と社会的なシグナル伝達(表情、声)が、解剖学的に結合していることを明らかにした点にある。これが社会的関与システム(Social Engagement System: SES)である 。

3.1 5つの脳神経による統合制御

SESは、脳幹(特に延髄)の特定の領域を起源とする5つの脳神経によって構成されている。これらの神経は、胎児期の発生過程において同じ鰓弓(咽頭弓)から派生しており、機能的にも統合されている

脳神経名称主な機能社会的関与における役割
CN V三叉神経咀嚼筋、顔面の感覚、鼓膜張筋租借、発声の基盤。中耳の筋肉(鼓膜張筋)を調整し、低周波の背景雑音をフィルタリングして人間の声(高周波)を聞き取りやすくする。
CN VII顔面神経表情筋(眼輪筋、大頬骨筋など)、アブミ骨筋感情の表出。眼の周りの筋肉(眼輪筋)の収縮による「デュシェンヌ・スマイル」は安全性の強力なシグナルとなる。中耳のアブミ骨筋を制御し、聴覚のチューニングを行う。
CN IX舌咽神経咽頭の筋肉、嚥下声のイントネーション(韻律)の調整。喉の共鳴を制御し、感情豊かな声を生み出す。
CN X迷走神経(腹側)喉頭、気管支、心臓声帯の緊張制御による発声。心臓へのブレーキ作用による鎮静化。SESの生理学的アンカー。
CN XI副神経胸鎖乳突筋、僧帽筋頭部の向き(オリエンテーション)。社会的対象への注視や首の動きを制御する。

3.2 顔と心臓のコネクション(Face-Heart Connection)

これらの神経核は脳幹内で密接に連携しており、興奮や抑制が相互に伝播する。したがって、VVCが活性化し、心臓が穏やかな状態(迷走神経ブレーキが効いている状態)にあるとき、顔面神経や三叉神経もまた「社会的関与」モードに調整される

  • 生理学的状態の表出: 心臓が落ち着いているとき、顔の表情は豊かになり、声には抑揚(プロソディ)が生まれ、耳は人間の声の周波数帯域にチューニングされる。
  • 行動からのフィードバック: 逆に、意識的に呼吸を整え、表情を和らげ、歌う(喉頭や咽頭を使う)ことで、脳幹のVVCを刺激し、心臓を落ち着かせることができる 。

この双方向性こそが、対人関係を通じた生理学的調整(共同調整)の基盤となる。

3.3 聴覚と社会的関与:中耳筋の役割

特筆すべきは、SESにおける聴覚の役割である。三叉神経(CN V)と顔面神経(CN VII)は、中耳にある微小な筋肉(鼓膜張筋とアブミ骨筋)を制御している。VVCが活性化しているとき、これらの筋肉は緊張し、鼓膜の張力を高める。これにより、低周波の背景雑音(捕食者の唸り声や換気扇の音など)が減衰され、人間の声が含まれる中高周波数帯域が強調して聞こえるようになる

逆に、ストレス下でVVCが抑制されると、中耳筋の張力が低下する。すると、人間の声が背景雑音に埋もれて聞き取りにくくなり、代わりに低周波の音(危険信号)に対して過敏になる。トラウマサバイバーや自閉スペクトラム症の人々が、騒がしい環境で人の声を聞き取るのに苦労するのは、この中耳のフィルタリング機能が不全(SESのオフライン状態)に陥っているためである可能性がある


4. ニューロセプション:意識なき評価システム

ポリヴェーガル理論は、神経系が環境の安全性をどのように判断するかについて、ニューロセプション(Neuroception)という概念を提示した。これは「知覚(Perception)」とは異なり、意識的な思考を介さない、より原始的で反射的なリスク評価プロセスである 。

4.1 安全、危険、生命脅威の検出

ニューロセプションは、環境、他者の表情や声、そして自身の内臓感覚(受容感覚)からの情報を常にスキャンしている。側頭葉の皮質領域などが「親しみのある顔」や「プロソディのある声」を検出すると、その情報は脳幹へ送られ、防御反応を抑制する

ポージェスは、ニューロセプションによってトリガーされる3つの適応的生理状態を定義している

  1. 安全(Safety):
    • 活性化システム: 腹側迷走神経複合体(VVC)。
    • 生理学的特徴: 迷走神経ブレーキの作動、高い呼吸性洞性不整脈(RSA)、心拍の安定、中耳筋の活性化。
    • 行動的特徴: 社会的関与、遊び、休息、学習、言語化。
    • 代謝コスト: 低い(効率的)。回復と成長機能が優先される。
  2. 危険(Danger):
    • 活性化システム: 交感神経系(SNS)。
    • 生理学的特徴: 迷走神経ブレーキの解除、心拍数・血圧の上昇、コルチゾールの分泌。
    • 行動的特徴: 闘争・逃走(Mobilization)、過覚醒、防衛的怒り。
    • 代謝コスト: 高い。即時の生存のためにエネルギー資源を大量消費する。
  3. 生命脅威(Life Threat):
    • 活性化システム: 背側迷走神経複合体(DVC)。
    • 生理学的特徴: 急激な徐脈、血圧低下、無呼吸、痛覚鈍麻。
    • 行動的特徴: 不動化(Freeze)、シャットダウン、解離、失神。
    • 代謝コスト: 非常に低い(省エネモード)だが、哺乳類にとっては低酸素脳症などのリスクが高い危険な賭けである。

4.2 生物学的無礼(Biological Rudeness)と期待の不一致

ニューロセプションは、他者の社会的シグナルの欠如に対しても敏感に反応する。ポージェスはこれを「生物学的無礼(Biological Rudeness)」と呼んでいる

進化的に、哺乳類は対面相互作用において「表情の豊かさ」「声の抑揚」「アイコンタクト」を期待するように配線されている。これらが欠如した状態(無表情、単調な声、スマホを見ながらの会話など)に直面すると、認知的には「相手は忙しいだけだ」と理解していても、ニューロセプションはこれを「拒絶」や「危険」と判断する。

有名な「静止顔実験(Still Face Experiment)」では、母親が無表情(Still Face)になると、乳児は即座にストレス反応を示し、再関与を試みた後に、最終的に引きこもり(DVC的反応)や激しい抗議(SNS的反応)を示す 。これは、安全シグナルの欠如が、能動的な脅威刺激と同様に、神経系にとっては代謝的に高コストな防衛反応を引き起こすことを示している。大人同士のコミュニケーションにおいても、生物学的無礼は聞き手のVVCを抑制し、防衛的な生理状態を誘発する


5. 生理学的状態と代謝コストの経済学

VVCの機能は、単に社会的なニコやかさを生み出すだけでなく、生体のエネルギー管理(バイオエナジェティクス)において中心的な役割を果たす。ジェームズ・コーン(James Coan)の社会的ベースライン理論(Social Baseline Theory: SBT)と統合することで、社会的関与の代謝的意義がより明確になる 。

5.1 「負荷分散」としての社会的安全性

社会的ベースライン理論は、人間の脳が「信頼できる他者がそばにいる状態」を生物学的なベースライン(標準状態)として想定していると主張する 。孤独な状態や社会的支援がない状態では、個体は環境の監視とリスク対応をすべて自力で行わなければならない(Unassisted Labor)。これは脳にとって「負荷」であり、警戒のために常にリソースを割く必要があるため、基礎代謝コストが増大する。

一方、信頼できる他者が存在すると、脳はリスク監視のタスクを「負荷分散(Load Sharing)」する。生理学的には、他者の存在が安全シグナルとなり、VVCが活性化することで、交感神経系の過剰な活動が抑制される。これにより、警戒に費やされていたグルコースや酸素などの代謝資源が節約され、免疫機能や細胞修復、そしてより高次の認知機能へと再配分される

5.2 前頭前野における「神経の降伏(Neural Yielding)」

このリソース節約のメカニズムは、fMRI研究によって神経の降伏(Neural Yielding)として観測されている 。脅威(電気ショックの予告など)に直面した際、一人でいる被験者の脳では、感情制御や警戒に関連する背外側前頭前野(dlPFC)や前帯状皮質(dACC)が激しく活動する。しかし、パートナーと手をつないでいる時、これらの領域の活動は劇的に低下する。

これは脳が「サボっている」のではなく、社会的リソースの存在によって、自力での高コストな感情制御(トップダウンの抑制)を行う必要がなくなったことを意味する。脳は防御を解除し、リソースを節約する「降伏」状態に入る。VVCによるボトムアップの安全確保が機能しているため、前頭前野は緊急対応から解放され、より創造的で複雑な思考(ナラティブの構築など)に従事できるようになる

5.3 感情表出と抑制の代謝コスト

逆に、感情を抑制したり、嘘をついたり、社会的シグナルを偽装(ポーカーフェイス)したりすることは、多大な代謝コストを伴う。感情抑制は、自然なSESの出力(表情や声の震え)を、前頭前野からのトップダウン制御で無理やり抑え込むプロセスである 。これには持続的な注意と筋緊張の制御が必要であり、交感神経系を刺激し続けることになる。

安全な環境での「自己開示(Self-Disclosure)」や「真実を語ること」は、VVCの状態と一致した自然な表出であるため、抑制のための追加的なエネルギーを必要としない。したがって、心理的安全性が確保された場でのコミュニケーションは、最も代謝効率の良い状態と言える


6. 共同調整とインターパーソナル・シンクロニー

人間は、単独で自律神経系を完全に調整できるようには進化していない。我々は他者の神経系を利用して自身の状態を安定させる共同調整(Co-regulation)を必要とする生物である 。

6.1 ダイアディック(二者間)な調整メカニズム

共同調整は、二者間(ダイアド)で送受信される安全シグナルのループによって成立する。

  1. 送信: AさんがVVC状態にあるとき、そのSESはプロソディのある声と穏やかな表情を発信する。
  2. 受信とニューロセプション: Bさんの神経系はこれを安全シグナルとして検出し、自身のVVCを活性化させる。
  3. 同調: Bさんの心拍数が落ち着き、表情が和らぎ、Aさんに対して安全シグナルを送り返す。

このプロセスにおいて、オキシトシンは重要な役割を果たす。オキシトシンはVVCの働きをサポートし、心拍変動(HRV)を高めると同時に、社会的合図に対する脳の感受性を高める 。さらに、オキシトシンは脳波(特にアルファ波)の二者間同期(Inter-brain synchrony)を促進し、非言語的な協調行動をスムーズにすることが示されている

6.2 神経カップリングと「声の鏡」

コミュニケーションが成功しているとき、話し手と聞き手の脳活動は時間的・空間的に同期する現象が起きる。これを神経カップリング(Neural Coupling)と呼ぶ 。

  • 遅延と同調: 聴覚野などの低次領域では、聞き手の脳活動は話し手の音声にロックされ、時間的に同期する。
  • 予測的カップリング: 意図や意味を理解する高次領域(前頭前野など)では、聞き手の脳活動が話し手に先行する場合がある。これは、聞き手が文脈を理解し、次に来る展開を予測できている状態を示唆する 。

この高度な同期を可能にするのが、SESによる「声の鏡(Vocal Mirror)」システムである。聞き手が眼輪筋を収縮させ(デュシェンヌ・スマイル)、首を傾けて傾聴姿勢をとることは、話し手に対して「あなたの信号は受信されている」という強力なフィードバックとなる。この視覚的フィードバックが話し手のVVCを強化し、より流暢で複雑な言語化を促進する 。


7. ナラティブ、記憶、そして認知機能への影響

自律神経の状態は、単に「気分」の問題にとどまらず、言語能力、記憶の符号化、そして物語(ナラティブ)の複雑さに直接的な影響を与える。

7.1 安全性が生むナラティブの複雑性

VVCが活性化し、dlPFCが「神経の降伏」状態にあるとき、脳のリソースは言語中枢や連想野に配分される。これにより、話し手は以下のような高度な言語活動が可能になる

  • 精緻化(Elaboration): 出来事の事実関係だけでなく、感情的なニュアンス、背景、意味づけを含んだ豊かな物語を構築できる。
  • 統合: 断片的な記憶を、一貫性のある時間軸(過去・現在・未来)の中に統合できる。

7.2 脅威下での断片化と反復

逆に、生物学的無礼や脅威によって交感神経が優位になると、脳は生存モードにシフトする。言語中枢(ブローカ野)への血流が低下し、辺縁系が優位になる

  • 反復(Repetition): ナラティブは単純化され、同じフレーズの繰り返しや、事実の羅列(「そして…そして…」)になる。
  • 断片化: 記憶は文脈を失い、感覚的なフラッシュバックや断片的なイメージとして保存されやすくなる。これはトラウマ記憶の特徴でもある。

7.3 リスナー効果(Listener Effects):聞き手が記憶を作る

モニシャ・パスパティ(Monisha Pasupathi)の研究は、聞き手の態度が話し手の記憶形成に介入することを実証している

  • 注意深い聞き手(Attentive Listener): 聞き手が相槌を打ち、適切な反応を示すと、話し手はより長く、詳細な物語を語る。そして重要なことに、その後の記憶テストにおいても、詳細をより正確に記憶している。 共同調整による安全性が、海馬での記憶の定着(符号化)を助けたと考えられる。
  • 散漫な聞き手(Distracted Listener): 聞き手が上の空であったり、反応が薄い(Still Face的)場合、話し手は話を切り上げたり、内容を簡略化したりする。その結果、その出来事自体の記憶も薄れ、長期記憶への定着が悪くなる 。

つまり、我々の「過去」や「物語」は、個人の脳内だけで作られるのではなく、それを聞いてくれた他者とのSESの相互作用によって共同構築されているのである。


8. 臨床的応用と測定指標

8.1 迷走神経効率(Vagal Efficiency: VE)の測定

VVCの機能を評価する指標として、近年注目されているのが迷走神経効率(Vagal Efficiency: VE)である 。 従来、心拍変動(HRV)やRSAの振幅(大きさ)自体が迷走神経のトーンの指標とされてきた。VEはさらに一歩進んで、「迷走神経ブレーキの効き具合の動的な効率」を定量化する。

  • 定義: 心拍数(心周期)の変化量に対するRSAの変化量の傾き(スロープ)。
  • 意味: VEが高いということは、RSA(迷走神経の出力)をわずかに変化させるだけで、心拍数を大きく効率的に調整できることを意味する。これは代謝的に効率の良い、柔軟な神経系を示唆する。
  • 臨床的意義: VEの低さは、ストレス脆弱性、感情調整困難、機能性腹痛などの身体症状と相関することが示されている 。

8.2 トラウマと自閉スペクトラム症へのアプローチ

ポリヴェーガル理論は、トラウマや発達障害を「適応的なサバイバル反応」として再解釈する視点を提供する。

  • トラウマ: トラウマサバイバーは、脅威が去った後もニューロセプションが「危険」に固定され、VVCへのアクセスが遮断されている状態と言える。彼らの「無表情」や「単調な声」は、他者を拒絶しているのではなく、防御的な生理状態(DVCやSNS)の表れである 。
  • 自閉スペクトラム症(ASD): ASDの特徴である「視線を合わせない」「聴覚過敏(人の声が聞き取りにくい)」「表情の乏しさ」は、SESの機能不全(特に脳神経の調整不全)として理解できる。中耳筋の制御不全が、背景雑音のフィルタリングを妨げ、社会的な場を「騒音の嵐」に変えている可能性がある 。

8.3 治療的介入:Safe and Sound Protocol (SSP)

ポージェスは理論を応用し、聴覚からVVCを刺激するSafe and Sound Protocol (SSP)を開発した 。

  • メカニズム: 人間の声の周波数帯域を強調し、低周波を除去した処理済み音楽を聴かせる。
  • 効果: これにより中耳筋(鼓膜張筋・アブミ骨筋)を「筋トレ」し、迷走神経系を刺激する。結果として、聴覚過敏の改善だけでなく、自律神経の調整機能(迷走神経ブレーキ)が回復し、社会的関与行動や感情調整能力が向上することが報告されている 。

9. 結論:安全性という生物学的必須要件

腹側迷走神経複合体と社会的関与システムの研究は、人間にとって「社会性」とは単なる文化的・心理的な付加物ではなく、生存のための生物学的必須要件であることを示している。

進化は、哺乳類に「つながることで生き延びる」ための精緻な神経機構を与えた。VVCによる迷走神経ブレーキは、代謝コストを最小限に抑えながら環境に適応することを可能にし、SESは個体間の生理的状態を同期させ、集団としてのレジリエンスを高める。

現代社会において蔓延するストレス、孤独、デジタルの分断(テキストベースのコミュニケーションによる生物学的無礼の増加)は、この古代のシステムに過剰な負荷をかけている可能性がある。ニューロセプションの誤作動を防ぎ、意識的に安全性(プロソディ、表情、傾聴)を提供し合うことは、単なるマナーの問題ではなく、互いの脳と身体の健康を守るための生理学的介入であると言える。

「安心」こそが、最高のパフォーマンス、深い知性、そして健康な身体への唯一の入り口である。


データ要約表

表1:ポリヴェーガル理論における自律神経の3階層

階層(進化順)神経基盤起源機能・状態生理学的特徴行動的特徴代謝コスト
1. 社会的関与 (最新)腹側迷走神経複合体 (VVC)哺乳類安全 (Safety)迷走神経ブレーキ作動、高いRSA、中耳筋活性化アイコンタクト、プロソディのある声、協調、学習低 (効率的)
神経の降伏によるリソース節約
2. 動員交感神経系 (SNS)硬骨魚類危険 (Danger)ブレーキ解除、心拍上昇、HPA軸活性化闘争・逃走、不安、防衛的怒り、過覚醒高 (消費的)
グルコース動員、異化作用
3. 不動化 (最古)背側迷走神経複合体 (DVC)爬虫類生命脅威 (Life Threat)極度の徐脈、無呼吸、血圧低下、痛覚鈍麻シャットダウン、解離、失神、引きこもり低 (保存的)
ただし哺乳類には致死リスクあり

表2:社会的関与システム(SES)を構成する脳神経群

脳神経名称機能的役割と相互作用
CN V (三叉神経)Trigeminal「聞く準備」: 鼓膜張筋を緊張させ、低周波ノイズをカットし、人の声の帯域を抽出する。
CN VII (顔面神経)Facial「安全の放送」: 眼輪筋(目元の笑い)とアブミ骨筋を制御。他者へ安全シグナルを送る。
CN IX (舌咽神経)Glossopharyngeal「声の彩り」: 咽頭の共鳴を調整し、声に感情的な深み(プロソディ)を与える。
CN X (迷走神経-腹側)Vagus (Ventral)「エンジンの制御」: 心臓へのブレーキ作用と気管支の調整。声のリズムと呼吸を同期させる。
CN XI (副神経)Accessory「向き合う」: 首の筋肉を制御し、社会的対象へ顔を向ける(オリエンテーション)。

表3:リスナー効果と代謝・記憶への影響

聞き手のタイプニューロセプション話し手の自律神経状態ナラティブ(物語)の質記憶の定着(符号化)代謝的影響
注意深い聞き手
(Responsive)
安全
(VVC活性化)
神経の降伏
(dlPFCの活動低下)
精緻化
複雑、詳細、感情的統合
高い
詳細まで長期記憶に残る
効率的
リソースを言語化・統合に集中
散漫な聞き手
(Distracted/Still Face)
危険 / 無礼
(SNS/DVC活性化)
防衛的覚醒
(トップダウン制御の増大)
反復・断片化
単純、事実の羅列、終了志向
低い
記憶が曖昧、または文脈を喪失
高コスト
関係性維持の不安処理にリソース消費

引用文献

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