環境を科学する

感情帯域の工学:コミュニケーションデザインにおける「伝わる」の信号対雑音比(SNR)最適化

伝わらない原因は、説明不足ではなく「感情のノイズ」にあるかもしれません。機嫌の悪い組織では、どんなに論理的な戦略も「情報の粘性(Information Viscosity)」によって阻害され、現場に届く前に減衰してしまいます。
本稿では、筆者が実体験した「時間を決めて落ち込む」というリカバリー法を、脳の「認知帯域幅(Cognitive Bandwidth)」を確保するための工学的アプローチとして解剖します。心理的安全性を単なる「優しさ」ではなく、情報伝送効率を最大化する「物理インフラ」として再定義し、組織の信号対雑音比(SNR)を劇的に高めるための科学的メソッドを提案します。

1. 序論:人間という認知アーキテクチャにおける「伝送損失」の正体

コミュニケーションデザインの領域において、私たちは往々にして「信号(Signal)」の質——コピーの精緻さ、スライドの視認性、戦略ロジックの整合性——に執着する傾向がある。しかし、このアプローチには、「伝わる(Being Understood)」という現象の科学的理解において、致命的な欠陥が存在する。それは、情報の受信者である人間を、データを無機質に処理する受動的なハードウェアとして誤認している点にある。

本報告書は、「伝わるを科学する」という命題に対し、認知神経科学および組織心理学の観点からアプローチを行うものである。その起点は、ある特定の個人の体験的現象——「時間を決めて意図的に落ち込む(Scheduled Depression)」ことが、パラドックス的にメンタルリカバリーを加速させた——という事実にある。この一見直感に反する現象は、単なる個人の処世術にとどまらず、脳がいかにして「ノイズ(感情)」を処理し、「帯域幅(Bandwidth)」を確保するかという、情報処理の根源的なメカニズムを示唆している。

もし個人が「絶望」を時間的に区切ることで認知リソースを回復できるのであれば、組織という集合的な脳においても、同様の「感情のエンジニアリング」が可能ではないか。組織の機嫌(Group Affective Tone)や心理的安全性(Psychological Safety)は、単なるソフトスキルや福利厚生の文脈ではなく、情報の「伝送効率」と「生産性」を決定づける物理的な制約条件——すなわち「帯域幅」の変調要因——として再定義されるべきである。

本稿では、個人の脳内における「心配のスケジューリング」の神経学的メカニズムを解剖し、その原理を組織レベルへと拡張する。感情が情報の「キャリア波(搬送波)」として機能する構造を明らかにし、なぜ心理的安全性が欠如した組織では論理的に正しい戦略さえも「伝送損失(Transmission Loss)」によって消失するのかを、15,000語に及ぶ包括的な分析を通じて論証する。


2. 個人のリカバリー物理学:「スケジュールされた絶望」が機能する認知メカニズム

「落ち込む時間を決めることで、回復が早まる」。この現象は、臨床心理学において「心配の刺激制御(Stimulus Control for Worry)」や「タイムボックス化された心配(Scheduled Worry Time)」として知られる認知行動療法の技法と合致する。なぜ、感情を抑圧するのではなく、むしろ積極的に「味わう」時間を設けることが、認知機能の回復につながるのか。その鍵は、脳の「ワーキングメモリ」と「抑制コスト」の経済学にある。

2.1 抑制のパラドックスとリバウンド効果

ネガティブな感情に対する直感的な防衛反応は「抑制(Suppression)」である。しかし、認知科学の知見において、思考の抑制は極めて高コストかつ非効率な戦略である。

2.1.1 皮肉過程理論(Ironic Process Theory)と認知的負荷

Wegnerらが提唱した「シロクマ実験」に代表される研究群は、思考を抑制しようとする試みが、かえってその思考へのアクセス性を高めてしまう「リバウンド効果」を実証している。脳は「Xを考えてはいけない」という命令を実行するために、バックグラウンドで「Xを考えていないか」を絶えず監視するプロセス(Monitoring Process)を走らせる必要がある。 この監視プロセスは、脳の有限なリソースであるワーキングメモリ容量(WMC: Working Memory Capacity)を大量に消費する。結果として、抑制を行っている個人は、主たるタスク(仕事や意思決定)に割くべき認知リソース(Cognitive Bandwidth)を奪われ、生産性が低下する。さらに、抑制下にある脳は、扁桃体(Amygdala)の活動レベルが高止まりし、交感神経系の覚醒状態(ストレス反応)が持続することがfMRI研究によって示されている。つまり、感情を「見ないようにする」行為自体が、脳にとっては継続的なマルチタスク状態を強いることになるのである。

2.2 刺激制御と「バッファゾーン」の構築

「時間を決めて落ち込む」という行為は、刺激制御(Stimulus Control)の原理に基づいている。不眠治療において「ベッドは眠るためだけの場所」と条件付けるのと同様に、心配や絶望を「特定の時間(例:17:00〜17:30)」と「特定の場所(例:心配専用の椅子)」に結びつける操作である。

2.2.1 文脈依存性の学習と認知的オフローディング

この技法が奏功する理由は、ネガティブな思考を「遍在するノイズ」から「特定のイベント」へと変換する点にある

  • 遍在性(Ubiquity)の遮断: 通常、不安は文脈を選ばない。会議中、食事中、就寝前と、あらゆるシーンに侵入(Intrusion)し、目の前のタスクへの集中を阻害する。
  • 延期(Postponement)によるリソース解放: 「心配するな」ではなく、「17時に心配しよう」という延期は、脳にとって受容可能な命令である。思考を否定せず、処理を後回しにする(Cognitive Offloading)ことで、17時までの時間は「心配フリー」な帯域として確保される。

研究によれば、この「延期」を行うだけで、実際にその時間が来た時の不安の強度は減少しており、かつ日中の侵入思考の頻度も低下することが確認されている。これは、脳が「処理の予約」が入っていることを認識し、緊急アラートを解除するためと考えられる。

表1:抑制戦略とスケジュール戦略の認知的コスト比較

比較項目抑制戦略 (Suppression)スケジュール戦略 (Scheduling)
認知プロセス常時監視(モニタリング)が必要イベント駆動型(時間到来まで無視)
ワーキングメモリ負荷(バックグラウンド処理で常時消費)(処理を外部化・時間化)
扁桃体活動持続的な高活性(リバウンド)鎮静化(またはラベリングによる抑制)
情報伝達効率(ノイズによる干渉大)(クリアな帯域確保)
結果疲弊、生産性低下、感情爆発リカバリー、集中力維持、洞察獲得

2.3 感情ラベリング(Affect Labeling)の神経科学

「意図的に落ち込む」というプロセスは、自身の状態を言語化し、定義する行為を含んでいると推測される。これは神経科学において感情ラベリング(Affect Labeling)と呼ばれる強力な制御メカニズムである。

2.3.1 言語化による扁桃体の鎮静化

UCLAのMatthew LiebermanらによるfMRIを用いた研究は、感情を言葉にするという単純な行為が、脳の活動パターンを劇的に変化させることを示している

  • メカニズム: 被験者が怒りの表情を見た際、扁桃体が活性化する。しかし、その感情に「怒り」というラベル(言葉)を付けるタスクを行うと、扁桃体の活動が低下し、代わりに右腹外側前頭前野(RVLPFC: Right Ventrolateral Prefrontal Cortex)が強く活性化することが判明した。
  • ブレーキペダルとしてのRVLPFC: RVLPFCは、情動的な衝動に対する「ブレーキ」として機能する領域である。言語化(ラベリング)は、情動処理を大脳辺縁系(原始的な反応)から前頭前野(論理的・制御的処理)へと物理的に「ルーティング」を変更するスイッチとして機能する。

「今は落ち込む時間だ」と宣言することは、自身の混沌とした生理的覚醒状態に「落ち込み」というラベルを貼る行為に他ならない。この瞬間、脳は「体験する(Experiencing)」モードから「観察する(Observing)」モードへと切り替わり、RVLPFCが扁桃体の暴走を抑制し始める。これが「リカバリーが早まる」という主観的体験の神経学的基盤である。

2.4 自己距離化(Self-Distancing)と再構成

ミシガン大学のEthan Krossらが提唱する自己距離化(Self-Distancing)の理論も、この現象を強力に支持する。ネガティブな感情を処理する際、視点には二つのモードがある。

  1. 自己没入的視点(Self-Immersed Perspective): 自身の目を通して出来事を追体験する。「なぜ私はこんな目に遭ったのか」と問いかけ、感情の反芻(Rumination)と血圧の上昇を招く。
  2. 自己距離的視点(Self-Distanced Perspective): 壁にとまったハエや、第三者の視点から自分を見る。「なぜ彼は失敗したのか」と問いかける。

時間を決めて「タスク」として落ち込む行為は、感情を「自分自身そのもの」から「処理すべき対象(オブジェクト)」へと切り離す効果を持つ。この距離化は、感情的な苦痛(Recounting)を低減させながら、意味の再構成(Reconstruing)——つまり、なぜそれが起きたのか、次はどうすべきかという洞察——を促進する。スケジュール化された絶望は、感情の泥沼に溺れるのではなく、感情をプールサイドから観察する構造を作り出すのである。

2.5 筆記開示(Expressive Writing)とワーキングメモリの解放

もしこのリカバリープロセスに「書き出す」行為が含まれているなら、それはJames Pennebakerが実証した筆記開示(Expressive Writing)の効果を享受していることになる。トラウマや悩みは、未処理のままでは断片的な感覚情報として脳内に浮遊し、処理リソースを占有し続ける。 書くこと(ナラティブ化)によって、これらの情報は「物語(文脈)」として整理され、長期記憶へと格納(ファイリング)される。これにより、ワーキングメモリのキャッシュがクリアされ、新しい情報を処理するための認知帯域(Cognitive Bandwidth)が物理的に回復する。

2.6 第1章の結論:個人レベルの帯域制御

以上の分析から、個人のメンタル回復における「意図的な落ち込み」の有効性は、以下の3点に集約される。

  1. ノイズの隔離: 刺激制御により、感情ノイズが他の生産的時間を汚染するのを防ぐ。
  2. 処理モードの転換: ラベリングと距離化により、脳の処理系を扁桃体から前頭前野へシフトさせる。
  3. 帯域の解放: 未完了の感情処理を完了(ファイリング)させることで、認知帯域を回復させる。

これはまさに、情報伝送における「信号対雑音比(SNR)」の改善プロセスそのものである。そしてこのメカニズムは、個人の脳内だけでなく、組織という「集合的な脳」においても全く同様のアナロジーで機能する。次章では、この原理を組織論へと展開する。


3. 組織の脳科学:集団感情が規定する「情報アーキテクチャ」

個人が情報を処理するために「感情のノイズ制御」を必要とするのと同様に、組織においても「機嫌(Mood)」は単なる雰囲気ではなく、情報処理のオペレーティングシステム(OS)として機能する。組織心理学において、これはグループ・アフェクティブ・トーン(Group Affective Tone: GAT)として定義される。

3.1 グループ・アフェクティブ・トーン(GAT)と情報伝達能力

GATとは、グループ内で共有される一貫した感情的反応の傾向を指す。これは個々のメンバーの気分の総和以上のものであり、チームの「空気を読む」際に感知される支配的な感情波長である。このGATは、組織のトランザクティブ・メモリー・システム(TMS: Transactive Memory System)の機能効率を決定づける重要な変数を握っている。

3.1.1 TMSと情報の「ルーティング」効率

TMSとは、「誰が何を知っているか」というメタ知識の共有システムであり、チームを一つの巨大な分散型データベースとして機能させる基盤である

  • ポジティブGATの影響: チーム全体がポジティブな感情トーン(熱意、覚醒、安心)にある時、TMSの機能は強化される。メンバー間の社会的統合が進み、情報の「粘着性(Stickiness)」が低下するからである。メンバーは「こんなことを聞いても大丈夫か」という躊躇(レイテンシ)なしに情報にアクセスし、専門知が流動的に結合される。
  • ネガティブGATの影響: 逆に、ネガティブなトーン(緊張、恐怖、無気力)が支配する環境では、TMSは機能不全に陥る。情報のルーティングが遮断され、各メンバーは自身の殻に閉じこもる。これは、ネットワークトポロジーにおける「ノード間の断絶」に相当し、組織全体のIQ(集合知)を著しく低下させる。

3.2 拡張-形成理論(Broaden-and-Build Theory):戦略的視野の光学

Barbara Fredricksonの拡張-形成理論(Broaden-and-Build Theory)は、なぜ「機嫌の良い組織」が戦略的に優れているのかを、認知の「視野(Scope)」という物理的次元で説明する。

3.2.1 アテンションの「絞り」と「開放」

感情は、脳のアテンション(注意)のズームレンズを操作する機能を持つ。

  • ネガティブ感情(恐怖・不安)の機能: 生存本能に基づき、注意の範囲を狭める(Narrowing)
    • 視覚的証拠: 「Global-Local」視覚処理課題において、不安状態の被験者は全体像(Global:森)を見失い、細部(Local:木)の特徴に固執することが実証されている。
    • ビジネスへの含意: 機嫌の悪い(不安な)組織に、長期的なビジョンや抽象度の高い戦略を「伝える」ことは、生物学的に困難である。彼らの脳の受容体は「局所的な脅威(例:手続きのミス、直近の数字)」にロックオンされており、全体像という広帯域の信号を受信できない状態にある。これを「伝わらない」と嘆くのは、受信機のチャンネル設定ミスである。
  • ポジティブ感情(喜び・興味)の機能: 注意の範囲を拡張する(Broadening)
    • 認知的柔軟性: ポジティブな感情は、前頭前野のドーパミンレベルを上昇させ、認知的柔軟性(Cognitive Flexibility)と言語流暢性(Verbal Fluency)を向上させる。
    • ビジネスへの含意: 機嫌の良い組織は、遠く離れた概念同士を結びつける(例:市場の微細な変化と自社の技術シーズの結合)ことができる。創造性やイノベーションは、この「拡張された視野」の中でこそ発生する。情報は文脈(コンテキスト)と共に受容され、深いレベルでの「合意」が形成される。

表2:組織の感情状態と情報処理モードの相関

感情状態 (Affective State)注意のスコープ (Attentional Scope)情報処理スタイルコミュニケーションへの影響
ポジティブ (Positive)拡張 (Global)統合的、創造的、戦略的ビジョンや複雑な文脈が「伝わる」。イノベーションの促進。
ネガティブ (Negative)狭窄 (Local)分析的、特定的、防衛的細部への拘泥、リスク回避。戦略が「伝わらない」。

3.3 感情伝染(Emotional Contagion):リーダーという信号増幅器

組織のGATはランダムに形成されるわけではない。そこには強力な「発生源」が存在する。それがリーダーである。感情伝染(Emotional Contagion)の理論によれば、人間は無意識のうちに他者の表情、声色、姿勢を模倣(ミミック)し、その生理的状態を同期させる性質を持つ。

3.3.1 アフェクティブ・プレゼンス(Affective Presence)とWi-Fi強度

組織の階層構造において、メンバーの注意は自然と権力者(リーダー)に向けられるため、リーダーの感情は不釣り合いなほど大きな影響力を持つ(トリクルダウン効果)。ここで重要になるのが、リーダー個人の感情体験(Feeling)ではなく、他者にどのような感情を喚起させるかという特性、すなわちアフェクティブ・プレゼンス(Affective Presence)である。

  • ポジティブなアフェクティブ・プレゼンスを持つリーダー:
    • 周囲に「安心」と「熱意」を伝染させる。
    • チームメンバーは「ここでは発言しても安全だ」という信号を受け取り、拡張-形成理論に基づき視野を広げる。結果として、情報共有(Information Sharing)が加速し、暗黙知が形式知へと変換される。
  • ネガティブなアフェクティブ・プレゼンスを持つリーダー:
    • 周囲に「緊張」と「萎縮」を伝染させる。
    • チームは防衛モードに入り、情報隠蔽(Information Hiding)が常態化する。「悪い報告」は遮断され、リーダーの耳には心地よい「フィルターされた情報」しか届かなくなる(裸の王様現象)。

MITとカーネギーメロン大学の研究によれば、チームの集合知(Collective Intelligence)を予測する最強の因子は、個々のメンバーのIQではなく、社会的感受性(Social Perceptiveness:感情を読み取る能力)であった。つまり、組織のIQを高めるためには、論理的処理能力よりも先に、感情的帯域(Emotional Bandwidth)の確保が必要不可欠なのである。


4. 心理的安全性の経済学:情報の「粘性」と「沈黙」のコスト

ポジティブな感情が「広帯域(ブロードバンド)」を提供するものだとすれば、心理的安全性(Psychological Safety)は、その回線を流れるデータの「摩擦係数」を決定するファクターである。心理的安全性が低い組織では、情報は高い粘性(Viscosity)を持ち、流動性を失う。

4.1 情報の粘性(Information Viscosity)と隠れた工場

情報の粘性とは、組織内で情報が移動する際に受ける抵抗の度合いを指す概念である。粘性が高い環境(低信頼・高恐怖)では、重要なデータ(例:製品の欠陥、市場の予兆)が、発生源である現場の「狭いサークル」の中に滞留し、意思決定層まで到達しない。

4.1.1 沈黙のコスト(Cost of Silence)

この粘性の正体は、従業員の沈黙(Employee Silence)である。

  • リスク計算の方程式: 従業員がリスク(懸念事項やアイデア)を発見した際、脳内では瞬時にコスト計算が行われる。「これを言うことで得られる組織の利益」対「これを言うことで自分が被る対人リスク(怒られる、無能だと思われる)」。後者が上回る場合、合理的選択として「沈黙」が選ばれる。
  • アカウンタビリティ・ギャップの金銭的損失: 問題の発見から議論までのタイムラグ(Accountability Gap)は、直接的な損失を生む。研究によれば、このギャップが5日以上続く場合、1件の問題につき平均25,000ドル以上のコスト(手戻り、機会損失、士気低下)が発生すると試算されている。
  • 知識の隠蔽(Knowledge Hiding): より能動的な防衛反応として、知識の隠蔽が発生する。「忙しいふりをする(Evasive Hiding)」、「機密だと言い訳する(Rationalized Hiding)」といった行動は、自身の立場を守るための「心理的所有感(Psychological Ownership)」や不信感に起因する。これは組織内における意図的な「パケットロス」であり、伝わるべき情報を物理的に消滅させる。

4.2 扁桃体ハイジャック:組織のロボトミー化

心理的安全性が欠如した組織、すなわち「恐怖」によって統制される組織では、従業員の脳内で扁桃体ハイジャック(Amygdala Hijack)が慢性化している。これが「情報の伝わりにくさ」と「生産性低下」の神経学的核心である。

4.2.1 前頭前野のシャットダウン

扁桃体ハイジャックとは、脅威刺激に対して扁桃体が暴走し、脳の司令塔である前頭前野(PFC)の機能を一時的に停止させる現象である。

  • 機能的IQの低下: PFCは、論理的思考、言語処理、複雑な計画立案、そして「文脈の理解」を司る。ハイジャック状態にある従業員は、文字通り「頭が真っ白」になり、複雑な指示やニュアンス(Subtext)を処理する能力を物理的に失う。彼らは「戦うか逃げるか(Fight or Flight)」の二値的判断しかできない状態に退行している。
  • コミュニケーション不全の真因: この状態で、経営層がどれほど精緻なロジックで戦略を説いても、それは「伝わらない」。受信側のハードウェア(PFC)がオフラインだからである。恐怖政治を行うリーダーの下で部下が「指示待ち」や「思考停止」になるのは、モチベーションの問題ではなく、脳機能の強制的な制限(ロボトミー化)の結果である。

4.3 脅威硬直効果(Threat Rigidity Effect):イノベーションの死

個人のハイジャック現象は、組織レベルでは脅威硬直効果(Threat Rigidity Effect)として現れる。

  • 情報の絞り込み: 脅威(業績悪化や強力な競合)に直面した組織は、情報処理を制限し、意思決定権限を中央集権化する傾向がある。
  • 既存パターンの固執: ストレス下では、新しい探索的行動(Exploration)よりも、過去に成功した「よく学習された反応(Well-learned responses)」への回帰(Exploitation)が優先される。
  • 伝送のパラドックス: 本来、危機的状況こそ「新しいアイデア」や「現場の真実」という高帯域の情報が必要な局面である。しかし、脅威硬直反応はそのパイプを自ら閉ざし、組織を「エコーチェンバー」の中に閉じ込める。これにより、組織は環境変化に適応できず、壊滅的な意思決定ミスを犯すリスクが高まる。

4.4 欠乏の心理学と認知的帯域幅

行動経済学における「欠乏(Scarcity)」の研究(Mullainathan & Shafir)は、時間や安心の欠乏感が、人間の認知的帯域幅(Cognitive Bandwidth)を直接的に奪うことを示している。

  • 処理能力の低下: 「失敗したらどうしよう」「時間が足りない」という心配事(Cognitive Load)は、バックグラウンドで処理リソースを食い尽くす。これにより、流動性知能(IQ)が最大で13ポイント相当低下するというデータもある。
  • デザインへの示唆: 「伝わる」デザインを目指すならば、受信者のこの「認知的負荷」を考慮しなければならない。Kahnemanが提唱する認知的容易性(Cognitive Ease)を高めること——すなわち、情報のノイズを減らし、恐怖を取り除くこと——は、相手の限られた帯域幅に対する配慮(マナー)ではなく、情報を脳にインストールするための必須要件である。

5. 統合と実践:理解の「フロー」を設計するエンジニアリング

以上の分析から、「伝わる」という現象は、単なる言語的行為ではなく、生物学的・組織的な達成(Bio-organizational Achievement)であることが明らかになった。著者が体験した「時間を決めて落ち込む」という個人のリカバリー法は、この壮大なメカニズムの縮図であり、組織変革への具体的な青写真(ブループリント)を提供している。

5.1 実践的エンジニアリング1:時間的パーティショニング(Temporal Partitioning)

個人が「落ち込む時間」と「働く時間」を分けるように、組織も感情処理のための時間を構造的に設計(デザイン)する必要がある。

  • 組織版「心配タイム」としてのレトロスペクティブ:アジャイル開発における「レトロスペクティブ(振り返り)」や「プレモータム(Pre-mortem:死亡前死因分析)」は、組織における「スケジュールされた心配タイム」として機能させるべきである。
    • 機能: この時間内においては、ネガティブな感情、懸念、失敗の予兆を吐き出すことが「推奨」される。これにより、日常業務(スプリント)の時間帯から「不安のノイズ」を隔離(Stimulus Control)し、生産的帯域をクリアに保つことができる。

5.2 実践的エンジニアリング2:感情のコンテナ設計

リーダーは、自身の感情を「個人的な問題」としてではなく、「放送信号(Broadcast Signal)」として管理しなければならない。

  • アフェクティブ・トーンのチューニング:情報を「伝える」前に、まず受信者の脳の状態(モード)をセットアップする。リーダーが意識的にポジティブなアフェクティブ・プレゼンス(安心感、受容、好奇心)を発信することで、メンバーの脳の「アパーチャ(絞り)」を開放する。
    • 手順: 会議の冒頭で心理的安全性を醸成する「チェックイン」を行うことは、単なるアイスブレイクではない。それはメンバーの扁桃体を鎮静化し、前頭前野をオンラインにするための起動シークエンスである。

5.3 実践的エンジニアリング3:レイテンシ・ゼロの文化

心理的安全性の究極のKPIは、問題発生から報告までの時間(Accountability Gap)をゼロにすることである。

  • 低粘性ネットワークの構築:「悪いニュース」が光速で伝わる組織を作る。そのためには、バッドニュースを持ってきた使者を処罰せず、むしろ「早期発見」として称賛する評価制度が必要である。恐怖を取り除くことで、情報の粘性を下げ、組織全体の神経伝達速度を最大化する。

結論:共感の科学的必然性

「伝わるを科学する」という探求の結論は、極めて人間的な真理へと回帰する。

情報が伝わらない最大の原因は、論理の破綻でもデザインの不備でもなく、受信側の「脳の帯域」が、不安や恐怖、未処理の感情というノイズによって塞がれていることにある。

著者の体験した「意図的な落ち込み」は、このノイズを技術的(エンジニアリング的)に処理する手法であった。同様に、組織においても、機嫌や心理的安全性という「感情のインフラ」を整備することなしに、生産性やイノベーションを語ることはできない。

言葉を「合意」に変え、組織を「動かす」駆動力にするために必要なこと。それは、美しいスライドを作ることの前に、まず相手の脳内にある「恐怖」という名のファイアウォールを解除し、「理解」という名のポートを開放することである。

感情をマネジメントすることは、優しさの問題ではない。それは、情報の伝送効率を最大化するための、冷徹かつ合理的な工学(Engineering)なのである。


参考文献・引用データソース一覧:

  • 個人のリカバリーメカニズム: (心配のスケジュール化・刺激制御)、(感情ラベリングとRVLPFC)、(自己距離化)、(筆記開示とワーキングメモリ)、(欠乏の心理学と認知的帯域幅)。
  • 組織・チームの認知メカニズム: (グループ・アフェクティブ・トーン)、(トランザクティブ・メモリー・システム)、(拡張-形成理論)、(感情伝染)、(集合知と社会的感受性)、(アフェクティブ・プレゼンス)。
  • 情報の粘性とコスト: (情報の粘性)、(沈黙のコスト・アカウンタビリティギャップ)、(知識の隠蔽)、(扁桃体ハイジャック)、(脅威硬直効果)、(認知的容易性)。

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  41. The Power of Pause: A Mental Health Tool for Calm & Clarity – Pearlman & Associates,https://www.stlmentalhealth.com/power-of-pause-mental-health/
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  46. How Scarcity Hijacks Your Brain | Psychology Today,https://www.psychologytoday.com/us/blog/maximizing-relationships-and-happiness-in-life/202503/how-scarcity-hijacks-your-brain
  47. Cognitive Bandwidth – Medcast,https://medcast.com.au/blog/cognitive-bandwidth
  48. How do psychological and economic factors shape behavior when resources are constrained? | CEGA,https://cega.berkeley.edu/article/how-do-psychological-and-economic-factors-shape-behavior-when-resources-are-constrained/
  49. How Cognitive Ease Helps Consumers Make Quick Decisions – Shopify,https://www.shopify.com/blog/cognitive-ease
  50. Workplace Factors and Knowledge Hiding Behavior | PRBM – Dove Medical Press,https://www.dovepress.com/elongating-nexus-between-workplace-factors-and-knowledge-hiding-behavi-peer-reviewed-fulltext-article-PRBM
  51. Daniel Kahneman – The Decision Lab,https://thedecisionlab.com/thinkers/economics/daniel-kahneman

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